名残なご)” の例文
旧字:名殘
「その白砂糖をちょんびりと載せたところが、しゅうの子を育てた姥の乳のしたたりをかたどったもので、名物の名物たる名残なごりでござりまする」
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
すると、百姓は名残なごり惜しそうに、箱をガタガタ両手でゆすぶってみたり、箱の裏側へなんということもなしにまわってみたりする。
南方郵信 (新字新仮名) / 中村地平(著)
染之助の居る一座は、十月興行をお名残なごりに上方へ帰って、十一月の顔見世かおみせ狂言からは、八代目団十郎の一座がかかると噂が立ちました。
ある恋の話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
せめてと目なりとも本当のお顔をお見上げして、この世のお名残なごりに致したいというような、やる瀬のない思いに引き止められまして
押絵の奇蹟 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「放ってお置きなさいよ。きっとまた興にのって、どこかですべっているのよ。お名残なごりに笠山かさやままで行こうかなあ、なんていってたから」
あんずるにその堂みたいなものは、昔、武田衆が武相乱入の折に人馬千魂のとむらいをしたという経塚きょうづか名残なごりであるかも知れません。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「折角友だちになったのんに名残なごり惜しいですなあ」と、わたし何や、ほんまにそんな気イしましてしばらくもじもじしてました。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そして、これを名残なごりの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末期まつごおそれやおびえの色が、やっと消えたのである。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
やがて海底超人たちは、名残なごりおしそうに甲板を見まわしたり、これから飛びこもうとする暗い海面をながめたりしていた。
海底大陸 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼らの言うところによれば、そういうものは瀕死ひんし時代の最後の名残なごりだった。もうだれもそんなものを顧みる者はなかった。
忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残なごりを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色も後ろになった。
小さき者へ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
その内に日は名残なごりなくほとんど暮れかかッて来て雲の色も薄暗く、野末もだんだんとかすんでしまうころ、変な雲が富士のすそへ腰を掛けて来た。
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
老人ろうじんはもう行かなければならないようでした。私はほんとうに名残なごしく思い、まっすぐに立って合掌がっしょうして申しました。
雁の童子 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
若い生姜しょうがの根ほどの雲の峯を、夕の名残なごりに再びひろげている方を指して、「ずーっと、この奥に爪哇ジャバがあります。みな僕の船の行くところです」
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
「そうなんだ」と代二郎が云った、「——こちらは名残なごりの夜で、われわれは……というわけだ、ではこれで帰るよ」
初夜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「憤りはしないのですが、あなたと別れる時期が来ましたから、もう往かなかったのですよ、でも、今晩は、お名残なごりに、私の家へ往って話しましょう」
岐阜提灯 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
蝶子は承りおくという顔をした。きっぱり断らなかったのは近所の間柄気まずくならぬように思ったためだが、一つには芸者時代の駈引きの名残なごりだった。
夫婦善哉 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残なごりで、その時には祭礼番附が出来た。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
これらの立ち枯れのグイ松たちは、いつかの樺太の全山を襲った松毛虫の被害の名残なごりだということである。
ツンドラへの旅 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
いつの間にかその大理石の柱のかげには旧芝居の名残なごりなる簪屋かんざしやだの飲食店などが発生繁殖して、遂に厳粛なる劇場の体面を保たせないようにしてしまった。
銀座 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
大人しい妙子は、その云いつけを守って、即日ホテルを出発したが、明智に別れを告げる時には、彼女の方でも、気のせいか、ひどく名残なごり惜しげに見えた。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
小修道院は庭のついた一連の長屋で、各種の会派のあらゆる老修道女らがいっしょに住んでいて、革命のために破壊された修道生活の名残なごりのものであった。
涙ににじんだ眼をあげて何の気なく西の空をながめると、冬の日は早く牛込うしごめの高台の彼方かなたに落ちて、淡蒼うすあおく晴れ渡った寒空には、姿を没した夕陽ゆうひ名残なごりが大きな
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
名高い往昔むかしの船宿の名残なごりを看板だけにとどめている家の側を過ぎて砂揚場すなあげばのあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
どれお名残なごりにこれだけ頂戴ちょうだいいたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障子しょうじにうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきませう。……
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
その時の名残なごりの焼傷やけどあとが残っていて、右足の指が五本とも一つにくっついてのっぺりしていた。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
築地つきじ別院に遺骸いがいが安置され、お葬儀の前に、名残なごりをおしむものに、芳貌ほうぼうをおがむことを許された。
九条武子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
四月とはいってもまだ寒さの名残なごりは午後の浜べにみちていた。砂の上に足をなげだしていた大石先生は、思わず立ちあがって、はたはたとモンペのひざをはたいた。
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
もう少しぐらいいいじゃありませんか? これっきり、もう何年も逢えないんだと思うと、やはり僕は名残なごり惜しくてしかたがありません。もう少しお話しましょうよ。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
この遺歌集の最後の二首は、また氏の最後のものらしく円熟した透明な名残なごりをとどめている。
睡蓮 (新字新仮名) / 横光利一(著)
栄えた船着場の名残なごりとしての、遊女町らしい情緒じょうしょの今も漂っているのと思いあわせて、近代女性の自覚と、文学などから教わった新しい恋愛のトリックにもさとい彼女が
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
婆「わたくしだってお名残なごりが惜しいから泣きます、貴方も泣いて入らっしゃるではございませんか」
ひっそりした真昼の空気の中には、まだはちの翅音の名残なごりが、かすかな波動を残していた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それから何時間経ったでしょう、水の黒さが身にしむばかり、人足も大分途絶えて、名物のからかぜ、花を散らした名残なごりを吹いて、サッと橋の上の砂塵さじんを吹きあげる頃でした。
悪人の娘 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
くも送るもこれより別るるゆえに名残なごりの柳ととなえられぬ、いと広き磧の中央、塵芥しみて黄色になれるは、送別の跡の絶えぬ証拠にして、周辺の石にシロジロと古苔ふるごけ蒸せるは
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
今では父をチャンと呼ぶ方が多くなっているが、越前の福井附近でままごとをジャジャンコ、紀州の熊野でチャチャボコというのも、かつては母をそう呼んでいた名残なごりかと思う。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
以前はこの都会の市長とも言うべき最高執政を務めていた頃の名残なごりの部屋部屋の前を通り過ぎつつも、その壮麗さにはまたいつものように眼をみはらずにはいられなかったのです。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
その代り昔の名残なごりの孟宗もうそうが中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
野原の名残なごりが年ごとにその影を消していきつつあるというふうの町なのであった。
のんきな患者 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
胸部のあたりには、せい名残なごりの温気がまだ消えないらしい。
去年 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
ありし世の名残なごりだになき浦島に立ちよる波のめづらしきかな
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
見る見る落日の薄明うすらあかり名残なごりなく消えて行けば
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
例の修羅場の名残なごりの場へと進発し、そこで、一応の検分をしてから、死体を取片づけさせてしまいましたが、ほどなく馬に乗って
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
妻よりもむしろこの老人に名残なごりが惜しまれて、せめて夫婦でいる間に一ぺんぐらいは親孝行をしておいてもと、柄にないことを考えたのだが
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そしてわたしはうとうと寝入りながら、これを名残なごりにもう一遍いっぺん、信頼をこめた崇拝すうはいの念をもって、その面影にひしとばかりとりすがった。……
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
いつか、式台には、幾ツもの明りや、幾人もの郷士たちが座列を作って、さすがに豪族の名残なごりをとめた応接ぶりです。そして、奥の一へ通される。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし針葉樹の疎林そりん灌木かんぼくとの平坦な土地で、見渡す限り一面の湿地帯である。氷河の名残なごりである小さな沼が、この平らな湿地帯の中に、無数に散在している。
アラスカ通信 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
そのお名残なごりといったような気持で、ツイこの間の三月の末コッソリ蟹口の家の様子を覗きに行ってみると、裏庭の野菜や菊畑、屋根の南瓜かぼちゃの蔓も枯れ枯れになって
衝突心理 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
どれお名残なごりにこれだけ頂戴ちょうだいいたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障子しょうじにうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきましょう。……
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
ただ一つ、私の作った椅子丈けが、今の夢の名残なごりの様に、そこに、ポツネンと残って居ります。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)