静謐せいひつ)” の例文
旧字:靜謐
恋の灼熱が通って、徳の調和に——さらに湖のような英知と、青空のような静謐せいひつとに向かって行くことは最も望ましい恋の上昇である。
女性の諸問題 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
客同志見知り越しのものもある。お互いに目礼はするが言葉に出して期待の時間の静謐せいひつを破りはしない。ただ腹の中で互いに想う。
食魔に贈る (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
東国の逆乱もすみやかな静謐せいひつを見、相共によろこばしい。さっそく将士の軍功の施与せよは、綸旨りんじの下に、朝廷でおこなうであろう。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ひよつとしたらこの静謐せいひつは、ふたたび間近に迫らうとしてゐる暴風あらしの準備をしてゐるのかも知れぬ。そのひまの片時の安らぎなのかも知れぬ。
母たち (新字旧仮名) / 神西清(著)
なその品行の方正謹直にして、世事に政談にもっとも着実の名を博し、塾中、つねに静謐せいひつなるは、あるいは他に比類を見ることまれなるべし。
慶応義塾学生諸氏に告ぐ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
「物」のみがもつ無心の静謐せいひつ確乎かっこたる不動の感覚、言葉のない、しかし有限な一つの暗い充溢じゅういつ、無責任な物質の充溢だけに任しているのだ。……
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
しかし粛然たる静謐せいひつな空気が全堂宇どううちわたり、これこそ彼が願望したすべてであったとう印象を消し難く残した
ロード・ラザフォード (新字新仮名) / 石原純(著)
ただ、このひととき、せめて、このひとときのみ、静謐せいひつであれ、と念じながら、ふたり、ひっそりからだを洗った。
秋風記 (新字新仮名) / 太宰治(著)
これはまるでうそのような景色であった。もう空襲のおそれもなかったし、今こそ大空は深い静謐せいひつたたえているのだ。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
聖恩の隆盛なる、実に感激にえず。我もまた信義を以てこの変替無き恩義に答えたてまつり、貴国の封内をして静謐せいひつに、庶民をして安全ならしめんと欲す。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
諸口さんの嫋々じょうじょうとした、いってみれば古典的静謐せいひつの美に対して、マダム丘子のそれは烈々としてすべてを焼きつくす情獄の美鬼を思わせるものであった。
だがまあ宜しいと僕は思う所あって云ったのです。ボードレールも詩の言葉で、おー静謐せいひつよ静謐よと憬れました
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
突然、その深い静謐せいひつのうちに、新しい音響が起こった。天来のきよい名状すべからざる響きで、前の音が恐ろしかったのに比べて実によろこばしい響きであった。
先生はこれを老人の遊びなどと笑つて居られたが、実に静謐せいひつな精到な学風のやうな感じを得て帰り帰りした。
露伴先生 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
言いたいことは山ほどありながら、父様の研究の静謐せいひつを乱すのは差し控えておこうとする心が、じきに頭をもたげてこの頃ではどんなことにもすぐ我慢ができる。
令嬢エミーラの日記 (新字新仮名) / 橘外男(著)
かれの眼底にはなお紙片は去らずに、その青い窓のある家々の扉を開いて、扉の内部にあるあの世の平和と静謐せいひつと規律と、そうして其処そこにある人物を描いて見せた。
みずうみ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
今までの静謐せいひつとは打って変わって、足音、号令ごうれいの音、散らばった生徒のさわぐ音が校内に満ち渡った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
先日中は静謐せいひつな別館で殊の他御世話様になりました。お仕事も順調に進行いたしましたことは一重に吉田様、奥様の御力尽くしのゆえと存じ、厚く御礼申し上げます。
静謐せいひつな、実に活々とした自然に対する憧れは、都会の貧弱な貸家に住って一層痛烈なものとなる。
この思いやりの心、むずかしく言えば博愛心、慈悲心、相愛心があれば世の中は必ず静謐せいひつで、その人々はたしかに無上の幸福によくせんこと、ゆめゆめ疑いあるべからずだ。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
当時世の中もまだ充分に静謐せいひつになったというではなく明治新政の手の附け初めで、何となく騒々しい時で、前から多少とも物持ちの家でも財産を減らさぬようにと心掛け
太子の強烈な信念が、わずかに時の静謐せいひつを保っていたのであったろう。威徳の前には諸王はむろんのこと外戚たる馬子達もひたすらおそれ慎しみ、常に翼賛申していたという。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
午後四時過ぎの涼しい静謐せいひつが其処にはあった。帆綱や欄干てすりやケビンの何かの影も映っていた。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
声は再、しずかになって行った。独り言する其声は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであろう。丑刻うしに、静謐せいひつの頂上に達した現し世は、其が過ぎると共に、にわかに物音が起る。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
戦殃せんおうの最盛時でさえ、三千人の学徒が在学していたというが、国中が斬りつ斬られつ、血みどろな奔走をしているとき、上州の片隅に勉学に沈潜する静謐せいひつな世界が存在したとは
うすゆき抄 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
天下静謐せいひつの折柄、そのためにどんな騒ぎが持上がり、諸人の迷惑になろうも知れぬ——
到頭たうとう私はソシアル・ダンスとあかい文字で出てゐる、横に長い電燈を見つけることが出来た。往来に面した磨硝子すりガラスに踊つてゐる人影がほのかに差して、ヂャヅの音が、町の静謐せいひつ掻乱かきみだしてゐた。
町の踊り場 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
自然界に於てなほ此事あり、人間の心界何ぞ常に静謐せいひつなるものならんや。
一日のあらゆる心の静謐せいひつねがって、『古今集』『源氏物語』へのおだやかな共感を、桜花や月光の織りなす情緒的な自然へ、そのまま流れこませ、想いうるかぎり甘美な気分のうすものを織りなすために
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
枯消しつくして、木像かミイラのように静謐せいひつである。
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
老いたる者をして静謐せいひつうちにあらしめよ
絶えず/\壮観と、静謐せいひつに渇する彼は
それが天下静謐せいひつの前提です。北条氏にも百年安泰の大計です。……その上で、どんな政治的な御折衝ごせっしょうも可能ではありませんか。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
無限に繊細で微妙な器と、それを置くことの出来る一つの絶対境を彼は夢みた。静謐せいひつが、心をかき乱されることのない安静が何よりも今は慕わしかった。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
人はあるいは彼はたましいの静謐せいひつなき荒々しき狂僧となすかも知れない。しかし彼のやさしき、美しき、礼ある心情はわれわれのすでに見てきた通りである。
農は粗服を用い粗食をくらい汗を流し耕作をかせぎ、工はその職を骨折り、商人は御静謐せいひつ御代みよどもに正路の働きにて、かたじけなくも御国恩を忘れざるよう致すべきの処
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
もし自分が美貌だったとしても、それはわば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐せいひつの気配を
人間失格 (新字新仮名) / 太宰治(著)
墓地の空気に交じった冬のもやであり、恐るべき一種の平安さであり、何ものをも呼吸いきをさえも聞き得ない静謐せいひつであり、何物をも幻の姿をさえも見得ない暗黒であった。
「一応もっともだが、天下静謐せいひつの折柄、無理な詮索せんさくをして江戸から切支丹邪教徒を挙げるのは面白くない。原主水一味の刑死以来、久しく血腥ちなまぐさい邪宗徒の仕置が絶えているのだから——」
それが一日二日で通過してしまうと、町はしんとしてもとの静謐せいひつにかえった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
平和とは内攻した血の創造の日々である。対外的には静謐せいひつであろうと、一歩国内の深部に眼をむけると、そこには相変らぬ氏族の嫉視しっしと陰謀と争闘があり、煩悩ぼんのうにまみれた人間の呻吟しんぎんがある。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そしてあれならば大名などが静謐せいひつな部屋に置いて落著おちついて鑑賞することも出来るし、光琳くわうりん抱一はういつの二家が臨摸りんぼして後の世まで伝はつてゐるのもさういふわけあひで、肉体的に恐ろしくないからである。
雷談義 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
なんという静謐せいひつさ! なんというなごやかな天と波……。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
お立てなさらぬよう、静謐せいひつにお願いいたします
顎十郎捕物帳:16 菊香水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
七月の静謐せいひつ
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
君側のかんを一掃してのうえでなら、微臣たりとも海内静謐せいひつのためどんな御奉公も決していとう者ではない。どうかご推量を仰ぎたい。恐惶謹言きょうこうきんげん
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一、世に誉れ高くまします父君の治世久しく多福を膺受ようじゅし給いしを眷顧けんこせる神徳によりて、殿下もまた多福を受け、大日本に永世かぎり無き天幸を得て、静謐せいひつ敦睦とんぼくならん事を祈る。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
「ヘッ、天下は静謐せいひつですよ、——親分におかせられても御機嫌麗わしいようで」
あまりの沈黙と静謐せいひつ尨大ぼうだいで奇怪な生命力——それに対すると、私は抱擁せずむしろ狐疑逡巡こぎしゅんじゅんし警戒するのを常とした。生の讃歌さんかを否定するのではないか——これが私の仏像への危惧きぐであった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
昨日も彼はリュックを肩にして、ある知りあいの農家のところまで茫々ぼうぼうとした野らを歩いていた。茫々とした草原に細い白い路が走っていて、真昼の静謐せいひつはあたりの空気を麻痺まひさせているようだった。
美しき死の岸に (新字新仮名) / 原民喜(著)