眼前めのまえ)” の例文
眼前めのまえには利ありとも不善によりて保ちたる利はついに保ちがたく、眼前には福を獲ずとも善心によりて生ずる福は終に大きなるものなり。
印度の古話 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
眼前めのまえにある冊子の紙が、窓から来る光のために透いて見える、——その紙の端のところに、紙へ漉込すきこんだ文字がありありと見えたのだ。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
軒並に青簾あおすだれを掛け連ねた小諸本町の通りが私の眼前めのまえにあるような気がして来た。その辺は私の子供がよく遊び歩いたところである。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
蠅は二人の眼前めのまえをちらちらしていたが、やがて九兵衛の右の腕にとまった。九兵衛は左の手を持って往って掌で伏せ、そっと指で撮んだ。
蠅供養 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
何処いずくよりか来りけん、たちまち一団の燐火おにび眼前めのまえに現れて、高くあがり低く照らし、娑々ふわふわと宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
と云ううちに文月巡査は、眼前めのまえテーブルの上に身体からだを投げかけて両肱を突いた。シッカリと頭を抱え込むと、溜息と一所に云った。
二重心臓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
こう言って司法主任は私達の眼前めのまえへ七色に輝く美しい首飾をぶら下げた。成る程、その大粒な連珠の上には、二つの大きな指跡が、はっきりと浮び出ていた。
デパートの絞刑吏 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
が、腹立紛はらたちまぎれに人を殺したものの、わが眼前めのまえよこたわれる熊吉の屍体を見ては、彼もにわかに怖しくなった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
行く末のかれが大望たいもうは霧のかなたに立ちておぼろながら確かにかれの心をき、恋は霧のごとく大望を包みて静かにかれの眼前めのまえに立ちふさがり、かれは迷いつ、怒りつ
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
異様の扮装をした十数人の男が、美々びびしい一挺の輿こしを守り、若武士の眼前めのまえにいるではないか。
南蛮秘話森右近丸 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
何處か氣脱のした體で由三が眼前めのまえに突ツ立ツても氣が付かなかツた。で聲を掛けると、ソワ/\しな不安な眼光まなざしで、只見で置いて、辛面やツとにツこりして挨拶をするといふ始末。
昔の女 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
殊に小説の梗概こうがいでも語らせると、多少の身振みぶり声色こわいろを交えて人物を眼前めのまえ躍出おどりださせるほど頗る巧みを究めた。二葉亭が人を心服さしたのは半ばこの巧妙なる座談の力があった。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
父は、木下が眼前めのまえにでもゐるやうに、前方を、きつと睨みながら、声はわな/\と顫へた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
母からこう注意された自分は、煙草たばこを吹かしながら黙って、夢のような眼前めのまえの景色を眺めていた。景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。月のない晩なので、ことさら暗いものがはびこり過ぎた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
思い懸けぬ山路やまみちに一人やすんでござった、あの御様子を考えると、どうやら、遠い国で、昔々お目にかかったような、ぼうとした気がしまして、眼前めのまえきました護摩ごまはてが霧になって森へ染み、森へ染み
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おげんはそこに父でも居るようにして、独りでかき口説くどいた。狂死した父をあわれむ心は、眼前めのまえに見るものを余計に恐ろしくした。
ある女の生涯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
今日はあにきの機嫌はどうだなんて、よくおっしゃってたものですよ、それが昨年の暮比からみょうに黙りこんで、いやな物でも眼前めのまえにいるようにしてるのですよ
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
にかく市郎の身につつがなかったのは何よりの幸福さいわいであったと、お葉は安堵の胸を撫下なでおろすと同時に、我が眼前めのまえに雪を浴びて、狗児いぬころのようにうずくまっている重太郎を哀れに思った。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
父は、木下が眼前めのまえにでもいるように、前方を、きっとにらみながら、声はわな/\と顫えた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
進むにしたがって地盤が柔かくなり、ともすると長靴をずぶりと踏込んでしまう、そしていつか灌木をぬけて蘆の生えた湿しめりへ出たと思うと、急に眼前めのまえへ殺生谷の底無し沼が姿を現した。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
グイと切っ先を眼前めのまえへ引き寄せ、一寸一寸送り込み、じいいっと刃並みを覗いて見た。空には星も月もなく、中庭を囲繞いにょうした建物からは、灯火ともしび一筋洩れていない。で、四方あたりは真の闇であった。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
しかし頭山翁は格別変った気色けしきもなく、活動のスクリーンでも見てるような態度で、眼前めのまえの殺陣を眺めまわしていたが、そのうちにフト自分のそばに一人の舞妓がヒレ伏しているのに気が付くと
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
御二人は目と目を見合せて、昔の美しい夢が今一度眼前めのまえきて通るような御様子をなさいました。奥様は茶呑茶椀を取上げて
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そう云いながら、信一郎はポケットに曲げて入れていたノートを夫人の眼前めのまえに突き付けた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
わかい漁師は小づくりな眼に黒味の多い細君さいくんの顔を眼前めのまえに浮べながら歩いた。
海嘯のあと (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
それは奇妙な獣のような形をした青白い火の玉で、夕闇の中を真直まっすぐに飛んで来てその男の眼前めのまえでぴたりと停まり、ぐるぐると二三度舞ったかと思うと、矢のように殺生谷の方へ飛去とびさって行った。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
さっと卜翁は障子を開けた。その眼前めのまえの廊下の上にのた打っているのは忠蔵である。我と我喉を削竹で裏掻くまでに突き刺している。片手にもったは封無しの書面。「ご主人様へ」と血で書いてある。
赤格子九郎右衛門の娘 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
黒ずんだ琵琶湖びわこの水が捨吉の眼前めのまえひらけて来た。大津の町に入った時は、寺々の勤行つとめの鐘が湖水に響き伝わって来るような夕方であった。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
病院の方角から自動車が、こっちへ向かってはしって来た。私の眼前めのまえを横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。
銀三十枚 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それからどのくらいの時間が経ったであろうか、ひどい渇きとはげしい頭痛を感じながら、ふっと眼を開いた新田は、直ぐ眼前めのまえに心配そうな三つの顔を見出した。宗方博士と、令嬢と、助手の北村である。
廃灯台の怪鳥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
牡丹ぼたんの花の咲いたような濃艶のうえんな女の姿が省三の眼前めのまえにあった。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
思えば結構尽けっこうづくめの御暮です。私は洋燈ランプの下で雑巾ぞうきんを刺し初めると、柏木のことが眼前めのまえに浮いて来て、毎晩癖のようになりました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
黒い大きな水みずした女の眼は眼花となって眼前めのまえにあった。
立山の亡者宿 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼は拳銃を前へ出して、若者の眼前めのまえで打ち振った。
死の復讐 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
新開地らしい光景ありさまは二人の眼前めのまえひらけていた。ところどころの樹木の間には、新しい家屋が光って見える。青々とした煙も立ち登りつつある。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
人影がちらちらと眼前めのまえかすめてそれが裏木戸のあたりで消えた。
女賊記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
大きな森林は三吉の眼前めのまえひらけて来た。路傍みちばたには自然と足を留めさせるような休茶屋がある。樹木の間から、木曾川の流れて行くのが見える。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
藤枝の眼前めのまえに怪しい人影がまた見えた。
女賊記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
園子の死——それから引続いて起って来た種々様々なことが、眼前めのまえに見るものと一緒になって、岸本の胸の中に混り合った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
じめじめと霖雨ながあめの降り続いた後の日に、曾て岸本がこの墓地へ妻を葬りに来た当時の記憶は、た彼の眼前めのまえに帰って来た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
私達の眼前めのまえにあったものは、半ば閉じた眼——尖った鼻——力のない口——蒼ざめて石のように冷くなった頬——呻声も呼吸もしまいに聞えなかった。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
葬り去りたい過去の記憶——出来る事なら、眼前めのまえの新緑が去年の古い朽葉を葬り隠す様に——それらのさまざまな記憶がたまらなくかれの胸に浮んだ。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
私の眼前めのまえには胡麻塩ごましお頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長いつちを振上げてもみを打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃つちほこりが立ち上った。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
一晩知らずに眠った家は隣と二軒つづきの藁葺わらぶきの屋根であった。暗くて分らなかった家の周囲まわりもお雪の眼前めのまえひらけた。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
小泉の兄の方から送った結納ゆいのうの印の帯なぞは、未だ一度も締たことが無くて、そっくり新しいまま眼前めのまえに垂下った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
時には彼女は夫の身体からだを自分の背中に乗せて、そこにある書架の前あたりをヨロヨロしながら歩き廻ったのも岸本の現に眼前めのまえに見るその同じ部屋の内だ。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
別離わかれを告げて出て行くような汽笛の音は港の空に高く響き渡った。お種の眼前めのまえには、青い、明るい海だけ残った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ドシドシ新しい家屋の建って行く郊外の光景ありさまは私の眼前めのまえひらけていた。私は、何の為に、山から妻子を連れて、この新開地へ引移って来たか、と思って見た。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前めのまえひらけて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間たにあいを流れている。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
捨吉は路傍みちばたにある石の一つに腰掛けて休んだ。そして周囲を見廻した。眼前めのまえには、唯一筋の道路みちと、正月らしくあたって来ている日の光とがあるばかりであった。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)