大發掘だいはつくつ)” の例文
此所こゝならば度々たび/″\たが、大發掘だいはつくつはせずにるのだ。今日けふつてもいかとふと、大丈夫だいじやうぶだ。原田文海はらだぶんかい心得こゝろえとると大呑込おほのみこみ。
んなことで一かう要領えうりやうず、山頂さんてうはうでは、わづかに埴輪はにわ破片はへん雲珠うず鞆等ともなど)を見出みいだしたのみ、それで大發掘だいはつくつだいくわいをはつた。
かゝる大發掘だいはつくつこゝろみてから、非常ひじやう此所こゝ有名いうめいつたが、いま兒島惟謙翁こじまゐけんおう邸内ていない編入へんにふせられて、とて普通ふつうでは發掘はつくつすること出來できずにた。
鶴見臺つるみだい各所かくしよに、地名表ちめいへうには遺跡ゐせきとして記入きにふあるが、實際じつさいおいて、破片はへん一箇ひとつ見出みいださぬ貝塚かひづかすくなくない。(大發掘だいはつくつはせぬが)
あるひはマンロー大發掘だいはつくつではるまいかと、くびかたむけながらつてると、それは土方氏どかたし非學術的大發掘ひがくじゆつてきだいはつくつであつた。
米國べいこくのエドワルド、エス、モールスが、明治めいぢ十二ねんおいて、はじめて此所こゝ遺跡ゐせき發見はつけんし、うして大發掘だいはつくつこゝろみられた記事きじは『理科會粹りくわくわいすゐ』のだいちつとして
一寸ちよつとにくところである。遺跡ゐせきひろいが、先年せんねん、チヤンバーレン大發掘だいはつくつこゝろみたとかで、畑地はたちはう斷念だんねんして、臺地北側だいちきたかは荒地あれち緩斜面くわんしやめんなかに四にんはいつた。
最初さいしよ余等よら發掘はつくつした方面はうめんあたつて、ひとすう男女だんぢよがつして十二三にん大發掘だいはつくつをつゞけてるのを發見はつけんした。
十九にち雨中うちうを、つてて、おどろいた。いままでの貝塚發掘かひづかはつくつ臺地だいち東部とうぶさか上部じやうぶ左側さそくであつたが、臺地だいち南側なんそく下部かぶ菱沼鐵五郎ひしぬまてつごらう宅地たくちまえはたけを、大發掘だいはつくつしてある。
其時そのときに(地底探檢記ちていたんけんき一五七ぺいじ參照さんせう貝灰かひばい原料げんれうとすべく土方どかた大發掘だいはつくつをしてたのをはじめてり、それから六ぐわつ十四またつてたが、兩度りやうどともじつ大失望だいしつばうであつた。
博士はかせはいよいよ十ぐわつより數日間すうにちかん此所こゝ大發掘だいはつくつ擧行きようかうせらるゝこととなつた。
坪井博士つぼゐはかせは、石田學士いしだがくし大野助手等おほのぢよしゆらともに、かね集合しうがふさしてある赤鉢卷あかはちまき人夫にんぷ三十餘名よめいとくして、いよ/\山頂さんちやう大發掘だいはつくつ取掛とりかゝり、また分隊ぶんたいして、瓢箪山西面ひようたんやませいめんに、なかばうづもれたる横穴よこあな
すで大發掘だいはつくつをしたあとなので、土器どきはモー留守るすであつた。