朝靄あさもや)” の例文
湖のおもてには牛乳のような朝靄あさもやが棚引きかけていました。その上から、まだ誰も起きていないらしい、なつかしい故郷の村が見えました。
ルルとミミ (新字新仮名) / 夢野久作とだけん(著)
すると、百歩も行かないうちに、姿は見えないが朝靄あさもやの中から、オーイッと高く呼ばわって、忽ち追い着いて来そうなはやい跫音が聞えた。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
風が少しもなくて、薄い朝靄あさもやを透して横から照り付ける日光には帽子の縁は役に立たぬものである。坂を上りつめると広い新開道があった。
雑記(Ⅰ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
もちろん、森も、山も、野も丘も、まだみんな深い朝靄あさもやの中に眠って、姉妹きょうだいの姿なぞの、その辺に見えようはずもありません。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
平次は口小言をいひ乍らも、事態重大と見たか、寢卷の前を掻き合せて、春の朝靄あさもやの中へ、眠り足らぬ顏を出すのでした。
朝靄あさもやを、微風びふういて、さざら波のたった海面、くすんだ緑色の島々、玩具おもちゃのような白帆しらほ伝馬船てんません、久しりにみる故国日本の姿は綺麗きれいだった。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ジュ、ジュクと雀の啼声なきごえとゆにしていた。喬は朝靄あさもやのなかに明けて行く水みずしい外面を、半分覚めた頭に描いていた。
ある心の風景 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
朝靄あさもや山の腰をめぐりて高くあがらず淺間が嶽に殘る雪の光にきらめきたり滊車の走るに兩側を眺むる目いそがはし丘を
木曽道中記 (旧字旧仮名) / 饗庭篁村(著)
船岡の町の一部は見えるが、原田家の館は山に隠れて見えない。館に続いている砦山とりでやまが、朝靄あさもやの中に、その頭部だけをくっきりと浮き出していた。
翌朝あくるあさ日覚めると明け放った欞子窓れんじまどから春といってもないほどなあったかい朝日が座敷のすみまでし込んで、牛込の高台が朝靄あさもやの中に一眸ひとめに見渡された。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
名にし負う神通二百八間の橋を、真中まんなか頃から吹断ふきたって、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝靄あさもやは、高く揚ってあさひを遮り、低く垂れて水を隠した。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかし日頃信頼する医者のもとに一夜を送って、桑畠くわばたけに続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄あさもやの中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。
ある女の生涯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
駒井が例の如くとうの鞭を振って立去る姿を、門に立った一学は、朝靄あさもやの中に見えずなるまで見送っていました。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
丁度上州一円に、春蚕はるご孵化かえろうとする春の終の頃であった。山上から見下すと、街道に添うた村々には、青い桑畑が、朝靄あさもやうちに、何処どこまでも続いていた。
入れ札 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
暁方あけがた近くうとうとして、ごとりごとり床板を踏む、フォイツの足音に、ふと眼覚めた時は、枕に近い小さい窓には、朝靄あさもやが浴場の玻璃はり扉のように渦まいておる。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
そして、朝になると本当によかったと思うことが度々であった。よく庭を一杯にめた朝靄あさもやに段々明るく陽が射して来る工合が何とも言えないいい気持であった。
回想録 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
六月十一日 朝六時甲板に立出で楠窓と共に朝靄あさもや深くめたる郷里松山近くの島山を指さし語る。
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
あお朝靄あさもやて、山蔭の水も千反せんたん花色綸子はないろりんずをはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日がすあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々れいれいと光り渡って、滔々とうとうと推し流して来る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
梅田着の上り列車で同志会総理加藤高明男が南海遊説の帰途かへりみちに大阪へ立寄るといふので、まだ薄暗い朝靄あさもやのなかから、一等待合室へ顔を出した待受まちうけの三人衆、一人は北浜花外楼きたはまくわぐわいろう女将おかみ
緑のゴブラン織のやうな蔦の茂みを背景にして背と腰で二箇所に曲つてゐる長身をやをら伸ばし、ほうきを支へに背景を見返へる老女の姿は、夏の朝靄あさもやの中に象牙彫ぞうげぼりのやうにうるんで白くえた。
蔦の門 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
漢陽の家々のいらか朝靄あさもやの底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
寺を出たとき、夜は明けかかっていて、右側に迫っている山裾や谷や、左にひろがっている湖面が、濃くなり薄くなる朝靄あさもやの中に見え隠れしていた。
若き日の摂津守 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その朝靄あさもやをついて、ぴょいと、そこらの家から飛び出して来たひとりの身軽な旅商人たびあきんどは、権之助と伊織のうしろから
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
付近の森や木立はまだ乳を溶かしたような朝靄あさもやに閉じ込められて、深々とした暁の眠りのうちにあった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
村を立って、二日目の朝、大きな峠を登りますと、その峠の頂上からはる彼方かなたに、朝靄あさもやの中に、数限りもない人家が地面一ぱいに並んでいるのがかすかに見えました。
三人兄弟 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
雪の深い関ヶ原を江州ごうしゅうの方に出抜けると、平濶へいかつな野路の果てに遠く太陽をまともに受けて淡蒼うすあお朝靄あさもやの中にかすんで見える比良ひら比叡ひえいの山々が湖西に空に連らなっているのも
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
飄然ひょうぜんとして橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄かたづまを取って引上げた、白い太脛ふくらはぎが見えると思うと、朝靄あさもやの中に見えなくなった。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
こうして静かな朝靄あさもやが、いつとなく晴れわたると、東のはてに朝日を浴びて、彼のグロース・シュレックホルンの屹えているのを仰ぐ、と間もなく、ブリュームリスアルプの山々は
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
脇本陣わきほんじんで年寄役を兼ねた桝田屋小左衛門ますだやこざえもんと、同役蓬莱屋ほうらいや新助とは、伏見屋より一軒置いて上隣りの位置にむかい合って住む。それらの人たちをも誘い合わせ、峠の上をさして、一同朝靄あさもやの中を出かけた。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
自分の頭をぽかぽかと拳骨げんこなぐって、うろうろと、いまにも泣き出しそうな顔を、朝靄あさもや彼方あなたへ上げた。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その四日目は、うすら寒く空は時雨しぐれて、朝靄あさもやの晴れぬうち、いつかしとしとと小雨になった、東の窓はヴェランダにつづいて、蔓薔薇のからんだ欄干の上に、樅の梢が少し見える。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
むこうなる、海のおもにむらむらとはびこった、鼠色の濃き雲は、彼処かしこ一座の山を包んで、まだれやらぬ朝靄あさもやにて、ものすさまじく空にひひって、ほのおつらなってもゆるがごときは、やがて九十度を越えんずる
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
畠地のうしろの松林に濃い朝靄あさもやがおりていて、その樹の間をしきりに小鳥がきながら飛び移っていた、頬白であろう、よく徹る美しい音色がきんきんと林へこだまし、筧をはしる水の囁きと和して
日本婦道記:不断草 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
白い朝靄あさもやにまぎれて、地上に手をつかえて見送っている僧や牢人や市人たちもあった。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もう、こずえのすがたは見えなかった。白い枯野かれの朝靄あさもやから、からすが立ってゆく。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あの色けのない本船ののどぶとい汽笛の声が、横浜はま朝靄あさもやをゆるがすころになると、あっちこっちの遊仙窟から、それこそ、とるものもとりあえず、といったような、あわてふためいた異人たちが
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ゆうべおそく、せきの追分で泊った二人なのに、その二人は今朝もまた、まだ朝靄あさもやのふかいうちに、筆捨山ふですてやまから四軒茶屋の前へかかり、やっとその頃、自分たちの背中から昇りかけた日の出を振向いて
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)