放擲ほうてき)” の例文
もし、清国政府が日本政府に対して悪感情を抱き、現在の好意的な中立の態度を放擲ほうてきして逆に露西亜ロシアに傾いて行ったら、どうなるか。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
愛のため、ニコロの愛欲の満腹のためには、私は未来の歓楽もビイクトリア勲章の憧れさえも、放擲ほうてきする考えだ。私は死すとも恥ない。
恋の一杯売 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
小倉は、水夫見習いが楽に出るようにと思ったのであったが、しかし舵機は同位に船首を保つために、一刻も放擲ほうてきしては置けなかった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
もし放擲ほうてきすれば、ほとんど進歩党は瓦解し尽し、自由党の如く政友会の下に加わらなければならぬという運命に出遇であったのである。
〔憲政本党〕総理退任の辞 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
もう一切を放擲ほうてきさせる程の力で。高輪の家の蒸暑い夏の夜なぞは彼は奥の部屋の畳の上に倒れて死んだように成っていることもあった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
自分が手を引っぱって或生活から踏み出させて置きながら、其を放擲ほうてきするということは、自分の真心として一字不明るべきではないことを知る。
青眼につけた剣にも、身構え、呼吸にも、どうかするとすてばちとも思えるほど無関心な、放擲ほうてきしたような態度がうかがわれた。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
正月以来、他ノ一切ヲ放擲ほうてきシテ妻ヲ喜バスヿニノミ熱中シテイタラ、イツノマニカ淫慾以外ノスベテノヿニ興味ヲ感ジナイヨウニナッタ。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
けれど、秀吉との交情と、その恩遇のために、又左衛門利家は、ついに、中原ちゅうげんに出て天下を争う考えは放擲ほうてきせざるを得なかった。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
安らかに生命を保つ。そんなことを青年が考えるときではない。この命題を前提とするすべての思想を私らは当分放擲ほうてきしなければならない。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
近所合壁かっぺきみんな肺病患者で、悲しい哉、彼等の大部分の人達は他の一切を放擲ほうてきして治病をもって人生の目的とする覚悟がなく
青春論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
放擲ほうてきして目的に取り組む。普段は随分打算家で、世間師の僕だがね。ここのところを君のお父さまは冷静を欠くと叱りなすったし、僕の前の……
扉の彼方へ (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
兵馬が最初の当途あてどもない甲武信の山入りを放擲ほうてきしたのと、お銀様と共に、その未だ知られざる温泉へ、発足しようと思い立ったのとは同時です。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
こんなに幾月もほかのことは放擲ほうてきしたふうで付ききりで看護もしていますが、またその時期が来ればあなたによく思ってもらえる私になるでしょう
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
先達せんだっての告白を再び同じへやのうちに繰り返して、単純なる愛の快感のもとに、一切を放擲ほうてきしてしまったかも知れなかった。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
これをもって方今士君子、唐楽・猿楽にては面白おもしろからず、俗楽は卑俚にえずとして、ほとんど楽の一事を放擲ほうてきするに至る。これまたおしむべきなり。
国楽を振興すべきの説 (新字新仮名) / 神田孝平(著)
回教徒が三十日もの間毎日十二時間の断食をして、そうして自分の用事などは放擲ほうてきして礼拝三昧らいはいざんまいの陶酔的生活をする。
映画雑感(Ⅲ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
わたしは東洋人が瞑想と仕事の放擲ほうてきということによって何を意味するかをさとった。おおむね、わたしは時間がどうたっていくか心にとめなかった。
一端口外した自家意中の計画をさえも容易に放擲ほうてきして少しもおしまなかったのはちょっと類の少ない負け嫌いであった。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
道元は仏法のために身心しんじん放擲ほうてきせよという。そうしてこの身心の放擲は、「汝の隣人に対する愛」にとってきわめて重大なる意味を持つものである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
「吾等、大悟一番、生死の念を放擲ほうてきして、夕立の中へ、駈込むのだのう。濡れまいとするから、押合いになるが、十死一生と観ずれば、夕立何物ぞ」
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
ことにこの一、二年はこの詩集すら、わずかに二、三十巻しかないわが蔵書中にあってもはなはだしく冷遇せられ、架上最もちり深き一隅いちぐう放擲ほうてきせられていた。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
時には、一切放擲ほうてき、生命さへも別に執着もなくなつて、誰かに簡単にくれてやりたい状態にさへなつてゐる。
大凶の籤 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
種々の苦悶くもんのうちにあって既に長い間、彼は仕事をやめていた。およそ世に仕事を放擲ほうてきするくらい危険なことはない。それは一つの習慣がなくなることである。
しかれども首相阿部伊勢守を始めとして、幕閣は半信半疑にこれを放擲ほうてきし、さらに何の準備もなさざりき。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
ありふれた日常の仕事は放擲ほうてきされてしまった。てんでに思い思いの意見や善後策を持ち出すけれど、一致を見ることができないからであった。農業も中止された。
最近聖典を失いましたため、一時研究を放擲ほうてきしましたが、大挙して諸君が参られたからは、再び勇気をふるい起こし、所期を貫徹致すべく努力するつもりでございます
そして終わりには、新たな玩具がんぐのためにすべてを放擲ほうてきした。飛行機にたいする世人の熱狂にかぶれた。
祖父は自分が懲りているので、父の代になって家庭に鳴物と勝負事は一切入れなかった。母は長唄と下方の笛が得意であったが、そんなものは皆放擲ほうてきして了っていた。
回想録 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
献身的ともいえる、妻の愛情に応えるために、私は一切の自己を、或は自己の一切の計量を放擲ほうてきしようと試る。病気は医者任せ、後は運命に任せるより他はないではないか。
澪標 (新字新仮名) / 外村繁(著)
同時に心柄こころがらなる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ放擲ほうてきして自分の身をば他人のようにその果敢はかない行末ゆくすえに対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。
私としては、今眼前にあるこの白人女性の不幸な屍体を、ただこのままに放擲ほうてきしてキャンプへ引き揚げてしまうということが、情において何としても忍びぬことなのであった。
令嬢エミーラの日記 (新字新仮名) / 橘外男(著)
仁清再現の企図だけは計画いくばくもなくして放擲ほうてきせられた……を人から聞き知った。
今まで文芸などに遊んでおった身で、これが果してできるかと自問した。自分の心は無造作にできると明答した。文芸を三、四年間放擲ほうてきしてしまうのは、いささかの狐疑こぎも要せぬ。
水害雑録 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
それも熔岩と砂礫の互層や、岩脈のほとばしりを露出して、整然たる成層美を示すところもあるが、多くは手もつけられないほど、砂礫や灰を放擲ほうてきしたようで、紛雑ふんざつを極めている。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
海が荒れるから今日は引返そうというような不自由極まる鑑賞方法に、この壮大な天然を放擲ほうてきして置いてはいけない。できるだけいろいろの変化が見られるようにする必要がある。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ば、全く土芥のごとくに放擲ほうてきしたのである。今やこの五尺の体躯こそ、最も貴重すべき宝となったではないか、それをも棄てさするに至っては……ああ、天地一の善神さえ無いのか!
太陽系統の滅亡 (新字新仮名) / 木村小舟(著)
その長い間放擲ほうてきしていた私の仕事を再び取り上げるために、一人きりにはなりたいし、そうかと言ってあんまり知らない田舎いなかへなぞ行ったら淋しくてしようがあるまいからと言った
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
地理の宿題で大変綿密な地図を描かせられたことがありました。面倒がりやの僕は中途でそれを放擲ほうてきしてしまったのですが、友はそのために徹夜して僕の分まで仕上げてくれました。
わが師への書 (新字新仮名) / 小山清(著)
放擲ほうてきされ、人工の森や林や花園は、殆ど元の姿を失って、雑草のはびこるに任せ、鉄筋コンクリートの奇怪な大円柱たちも、風雨にさらされて、いつしか原形をとどめなくなって了いました。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
階下では妻と子が病気で呻吟しんぎんしているが、近頃は薬餌やくじの料も覚束おぼつかない有様であるのに、もしベルリオーズが金儲かねもうけの俗事を放擲ほうてきして、交響曲シンフォニーの作曲に没頭ぼっとうしたらどんなことになるだろう。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
事件を全然放擲ほうてきしかねまじい失意を、法水が現わしたばかりでなく、せっかく見出した確証を掴もうとした矢先、その希望が全然截ち切られてしまって、もはやこの事件の刑法的解決は
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
含有する意味をもよくは探らで難解の句を放擲ほうてきするは今の学生の弊なり。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
だが、ここではそういう企図ははじめから放擲ほうてきせねばならぬ。
昭和四年の文壇の概観 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
現状のままに放擲ほうてきして置いて好いでしょうか。
平塚さんと私の論争 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
放擲ほうてきし去り放擲し去りあけの春
七百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
それが空想であるか、実在であるかを決めるのは私らの放擲ほうてき憑依ひょうい、転換——内面から迫られた一種の冒険でなければならないかと思います。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
代助は、百合ゆりはなながめながら、部屋をおゝふ強いなかに、のこりなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚の刺激のうちに、三千代みちよの過去を分明ふんみように認めた。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
以前は彼の快活を愛したエリス教授も、最早一頃のように忠告することすら断念あきらめて、彼が日課を放擲ほうてきするに任せた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
金溜かねため主義を放擲ほうてきしてぱっぱっと使う気になったのであろうと、簡単に解釈していたのであったが、実際はそれだけのことではないらしくもあった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)