“忌(き)” の例文
と。既(すで)に馳(は)すること(二九)三輩(はい)し畢(をは)りて、(三〇)田忌(でんき)一(ひと)たび勝(か)たずして再(ふたた)び勝(か)つ。卒(つひ)に王(わう)の千金(きん)を得(え)たり。是(ここ)に於(おい)て忌(き)、孫子(そんし)を威王(ゐわう)に進(すす)む。
「されば、今年はちょうど、忠利様の祖父の君にあたる幽斎(ゆうさい)公さまが、三条車町の御別邸でおかくれ遊ばしてより三年の忌(き)のお迎えと相成るので」
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
翁草に興津が殉死(じゅんし)したのは三斎の三回忌(き)だとしてある。しかし同時にそれを万治(まんじ)寛文(かんぶん)の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。
忌(き)の日・日忌(ひい)み様・二十五日様等の名も一つの証拠であるが、カイナンボウなどという珍しい言葉までが、行く行くはまた一つの手掛りになるだろう。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
店員の食事に獣肉を混ぜて食うのは一向、忌(き)に触れないばかりでなく、店員の身体もよくなり能率も挙るだろうと主張した。実行してその通りになった。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
手向(たむけ)候者一人も是なし併(しか)し拙僧(せつそう)宗旨(しうし)の儀は親鸞上人(しんらんしやうにん)よりの申傳(つたへ)にて無縁(むえん)に相成候塚(つか)へは命(めい)日忌(き)日には自坊(じばう)より香花(かうげ)を手向(たむけ)佛前(ぶつぜん)に於て回向(ゑかう)仕つり候なりと元より墓標(はかじるし)も無(なき)を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
忌(き)を終り、十月に、保良宮に行幸した。天皇も同行し、道鏡も随行(ずいこう)した。押勝は都に残った。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
知るに至った端緒(たんちょ)であるがこの書は生漉(きず)きの和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので察するところ春琴女の三回忌(き)に弟子の検校が誰(だれ)かに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「さればよ、明日(あす)は、父義朝の五七日の忌(き)にあたる。小さい卒塔婆(そとうば)なと削(けず)ってご供養のしるしとしたいが」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その神を日忌(ひいみ)様、その日を忌(き)の日というのがそれであって、今では二十五日を中心と見ているらしいが、祭の謹慎の始まるのは、やはり二十四日の前の宵からである。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
孫臏(そんびん)、(二〇)刑徒(けいと)を以(もつ)て陰(ひそか)に見(み)て齊(せい)の使(つかひ)に説(と)く。齊(せい)の使(つかひ)、以(もつ)て奇(き)と爲(な)し、竊(ひそか)に載(の)せて與(とも)に齊(せい)に之(ゆ)く。齊(せい)の將(しやう)・田忌(でんき)、(二一)善(よみ)して之(これ)を(二二)客待(かくたい)す。忌(き)數〻(しばしば)齊(せい)の諸公子(しよこうし)と(二三)驅逐重射(くちくちようせき)す。
進められ夫は何か仔細(しさい)の有さうな事シテ然樣に拷問(がうもん)に掛るには何か證據(しようこ)がなくてはならず何ぞ遁(のが)れ難き證據にても有しやと尋(たづね)らるゝに藤八謹(つゝし)んで答ふる樣先月二十日は節が實母(じつぼ)の七年忌(き)祥當なるにより大井川の東上新田村と申處に尊(たふと)き御僧(ごそう)が在る故何卒母の供養(くやう)を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
室の中に焚(た)き籠(こ)められていた香の煙が、彼女と共に外へ流れた。百日の忌(き)を過ぎてもなお、陽に会わないでいるせいか、梨の花のように白い愁(うれ)いを顔に湛(たた)えている。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三六 忌(き)の日
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
遂(とぐ)る處一々明白(めいはく)に申立ると雖も其方儀先頃無量庵へ闇夜(あんや)の節(せつ)提灯(ちやうちん)の用意もなく參りしとあり其刻限(こくげん)篤(とく)と申立よと云れければ九助夫は去る三月十九日は私し妻節が實母七回忌(き)の逮夜(たいや)に當り候間上新田村無量庵の住寺は生佛(いきぼとけ)の樣に近郷(きんがう)近村にて申唱(とな)ふるにより何卒回向(ゑかう)を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
柴家(さいけ)では故人皇城の七々忌(き)に当たり、典儀のあと、型のごとく、法事の宴に移っていた。——と、そこへ、どやどやと一群の“招かれざる客”が門へおしかけて来たものだった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
“忌(き)も怠りて働けど——”とそこでも私はお念仏の代りにつぶやいたことであった。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「オオその柴進なら話はつけよい。皇城の病死、つづいて葬儀、やむなく今日まで待ってやったが、早や七々の忌(き)も今日で相済(す)もう。さっそく明日はここを明け渡せよ。よろしいな」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けれど、きょうの雪斎四十九日の忌(き)に焼香した今川家の将士の中には、どことなく平和を欠いた騒(ざわ)めきが漲(みなぎ)っていた。辻固めの士にまで、殺気に近い緊張が流れていた。——戦(いくさ)がある。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
会議、月の忌(き)、祝日と、多事な日がつづいたあと、清洲は、毎日の大雨だった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
“父母の忌(き)もおこたりてはたらけど、やすらぎ給へ良き子とはならむ”
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ついきのうは初七日(しょなのか)の忌(き)で、宮中をはじめ二条の故館(こかん)では法要が行われ、各寺院でも終日の勤行(ごんぎょう)があり、町の声にしても、もう亡(な)い人となると、いまは何か、巨大に感じられる人間像とあとの空虚(うつろ)に
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
七回忌(き)であったのである。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)