亀裂ひび)” の例文
旧字:龜裂
お岩は苦しい体をひきずるようにして、台所から亀裂ひびの入った火鉢を出して来た。そして、それに蚊遣りをしかけながら宅悦を見た。
南北の東海道四谷怪談 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
ある冬の日の暮、保吉やすきち薄汚うすぎたないレストランの二階に脂臭あぶらくさい焼パンをかじっていた。彼のテエブルの前にあるのは亀裂ひびの入った白壁しらかべだった。
保吉の手帳から (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
……やどかりも、うようよいる。が、真夏などは暫時しばらくの汐の絶間たえまにも乾き果てる、壁のようにかたまり着いて、稲妻いなずま亀裂ひびはいる。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
窓ガラスの亀裂ひびのはいった片隅には、水のしたたりが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
ちょうど亀裂ひびだらけになって、今にもこわれそうな石地蔵が、外側に絡みついた蔦の力でばかり、やっとっているのを見るような心持がした。
日は輝けり (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
どこがどう押されてか、てかてかの軽い鋳型いがたに、ところどころ凸凹ができ、亀裂ひびがはいり、ぱくりと口をあくのである。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
新吉が心配しぬいている通り、こんどのことが悪く発覚すると、店の土台へ亀裂ひびの入るような破滅になるかもしれない。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
墓のなかで脹れあがった唇の皮はところどころに薄い赤い亀裂ひびが出来て、透明な雲母のようにぎらぎらしていた。
パンセイの頭には亀裂ひびが入って、そこから暗黒世界がほんのわずかばかり沁み込んだために、彼を死に至らしめたのだという私の説を一笑にしている。
雨の汚点しみが、壁に異様な模様をいている。化粧台の鏡には大きな亀裂ひびがはいり、縁の欠けた白い陶器の洗面器の中に、死んだ蠅が一匹ころがっていた。
キャラコさん:05 鴎 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
夕方少し涼しくなるのを待ち、燈下の机に向おうとすると、丁度その頃から亀裂ひびったような鋭い物音が湧起わきおこって、九時過ぎてからでなくては歇まない。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
太陽の光で、例の白壁の表面を調べて見たが、別に怪しい影もなく、それと見まがう亀裂ひびがある訳でもない。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
みんなで飯を食っていると、しきりに、石油のにおいがした。父がやっと発見したら、ランプの油壺に亀裂ひびが入って、そこから石油が、しずくになってれていたのだった。
あまり者 (新字新仮名) / 徳永直(著)
亀裂ひびのはいった長生きではなかった。この元気な老人は常に健康だった。彼は浅薄で、気が早く、すぐに腹を立てた。何事にも、多くは条理もたたないのに、煮えくり返った。
そこは壊れた敷石の所々に、水溜りの出来ている見窄みすぼらしい家並やなみのつゞいた町であった。玄関の円柱はしらに塗った漆喰しっくいが醜くはがれている家や、壁に大きな亀裂ひびのいっている家もあった。
緑衣の女 (新字新仮名) / 松本泰(著)
満員電車のつり皮にすがって、押され突かれ、もまれ、踏まれるのは、多少でも亀裂ひびの入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責かしゃくである。
電車の混雑について (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
しとやかなるはかかと亀裂ひびきらせしさき程の下女にあらず。
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
亀裂ひびはいつたこれらの頭に、烏は似合ひのよい羽飾り。
亀裂ひびが入って、ほぐれた石灰や土が
そこ、かしこ、硝子ガラス亀裂ひび入り
晶子詩篇全集拾遺 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
入交いりまじりに波に浮んでいると、かっとただ金銀銅鉄、真白まっしろに溶けたおおぞらの、どこに亀裂ひびが入ったか、破鐘われがねのようなる声して
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
けれど今日ばかりは、彼女のそうして持ち堪えてきた心もほろんでしまいそうだった。今までの純真な心へ、ま二つの亀裂ひびが走ったかと自分ですら悲しまれた。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
頭の往った方はとこになっているが、そこも亀裂ひびの入ったきいろな壁土かべつちわびしそうに見えるばかりで、軸らしい物もない。見た処どうしても空家としか思われない。
指環 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
(僕は木目もくめや珈琲茶碗の亀裂ひびに度たび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟きりんに違いなかった。
歯車 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
親類外の人々が、戦死した報を聞いても、そうビクビクしていなかった母たちは、貞助さだすけが、ウチジニしてからは、足許あしもと亀裂ひびが入ったように、何時いつもキョトキョトしていた。
戦争雑記 (新字新仮名) / 徳永直(著)
彼は亀裂ひびのはいった地面の上に、日向ひなたに寝そべった。
肉はひからび、皮しなびて見るかげもないが、手、胸などの巌乗がんじょうさ、渋色しぶいろ亀裂ひびが入つて下塗したぬりうるしで固めたやう、だ/\目立つのは鼻筋の判然きっぱりと通つて居る顔備かおぞなえと。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
だが——一党四十幾名の生命をになって、薄氷うすらいを踏んでいるのだ。亀裂ひびを見たら、もう全部の潰滅かいめつである。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
のみならず彼の勧めた林檎りんごはいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現してゐた。(僕は木目もくめ珈琲コオヒイ茶碗の亀裂ひびに度たび神話的動物を発見してゐた。)一角獣は麒麟きりんに違ひなかつた。
歯車 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
四方の静寂しじまつんざいて「ア——ああっッ」と、亀裂ひびのはいった声だった。伝七郎の口からである。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
燈火ともしびの赤黒い、火屋ほや亀裂ひびに紙を貼った、笠のすすけた洋燈ランプもとに、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場さいくばに立ちもせず、そでつぎのあたった、黒のごろの半襟はんえりの破れた
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
暗い中から白い服装なり、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、ひた——ひた、と客を見て早や用意をしたか、蟋蟀きりぎりすかじった塗盆ぬりぼんに、朝顔茶碗の亀裂ひびだらけ、茶渋でびたのを二つのせて
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
問「朝廷の両立ならば、その亀裂ひびは昔からの古傷で、いま始まったことではない」
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
又何か、両親同士で、争論いさかいをしているらしいのである。左兵衛佐は、父にあの事変があって以来、六十歳にもなるこの両親の間に迄、一つの大きな亀裂ひびが入ったことを何よりも残念に思った。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いや、下宿の三階建のかまえだったのですが、頼む木蔭に冬空の雨が漏って、洋燈ランプの笠さえ破れている。ほやの亀裂ひびを紙で繕って、崩れた壁より、もの寂しい。……第一石油の底の方によどんでいる。
雪柳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
とちと粘ってなまりのある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂ひびらせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋のおんな背後うしろへ、ぬっと、鼠の中折なかおれ目深まぶかに、領首えりくびのぞいて、橙色だいだいいろの背広を着
露肆 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
亀裂ひびでもっていたろう。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)