鉄漿かね)” の例文
旧字:鐵漿
黒々と鉄漿かねを染めた歯が下唇を噛んでいた。すぐ側に居流れている牟礼主水正むれもんどのしょう庵原将監いはらしょうげんのほうへ、書状は無造作に投げられていた。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「きょうは御馳走のある日だったね」と、地弾きのお辰は海苔の付いたくちびるを拭きながら、鉄漿かねの黒い歯をむき出して笑った。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
僕はあきれて立って見ていると、𣵀麻が手真似で掛けさせた。円顔の女である。物を言うと、薄い唇の間から、鉄漿かねがした歯が見える。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、鉄漿かねの道具をそろえておくれ、早う、早う」
南北の東海道四谷怪談 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
私と向ひあつてゐた女房が、ちよいと耳の垢とりの方を見ると、すぐその眼を私にかへして、鉄漿かねをつけた歯を見せながら、愛想よく微笑した。
世之助の話 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
「あ。」とくひしばりて、苦しげに空をあふげる、唇の色青く、鉄漿かねつけたる前歯動き、地に手をつきて、草にすがれる真白き指のさきわなゝきぬ。
紫陽花 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
年の頃は十六、七であろう、薄化粧して、鉄漿かねをつけていたが、ちょうど息子の小次郎とほぼ同じ年頃である。直実は、ふっと息をんで訊ねた。
もう時江は、自分自身でさえも、そのなまめいた空気に魅せられてしまって、鉄漿かねをつける小指の動きを、どうにも止めようがなくなってしまった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
鉄漿かねというものは今のわれわれには全く親しみがない。先日図らずも歯を染めた老婆を往来で見たが、周囲の世界と全くかけ離れた感じであった。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
少女おとめは紫色に鉄漿かねを染めた栗の実や赤く色づいた柿の実をむしろの上に乱して、まりと一しょに何心地なく遊んでいます。
嵐の夜 (新字新仮名) / 小川未明(著)
歯ヲ染メル時ハ特有ナ鉄漿かねノ臭イガシタコトヲ予ハ今デモ覚エテイル。ソノ母ヲ今ノ颯子ガ見タラ何ト感ジルダロウ。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
とお虎婆さんも上きげんで、わざわざその日のために黒々と染めて来たらしい鉄漿かねをつけた歯を見せて笑った。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
眉を剃った跡の青い、黒々と鉄漿かねをつけた、お銀の悩ましさはお雪とはまた別に八五郎の心を囚えたのです。
地方の大豪族である処から京の公卿くげ衆が来往することが屡々しばしばであったらしく、義元の風体もおのずからみやびやかに、髪は総髪に、歯は鉄漿かねで染めると云う有様であった。
桶狭間合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「あのゥ、鉄漿かねが落ちて仕様がないんです。誰かに鉄漿の落ちない粉を買わせてきてくださいません?」
艶色落語講談鑑賞 (新字新仮名) / 正岡容(著)
鉄漿かねをつけた歯に代首を銜えたお篠の顔は、——髪の加減で額は三角形に見え、削けた頬は溝を作り、見開らかれた両眼は炭のように黒く、眉蓬々として鼻尖り
鸚鵡蔵代首伝説 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
鉄漿かね蓴汁じゅんじゅうなど日本産の間に合う物は自国のを用い、追々は古方に見ぬ鯨糞などをも使う事を知り用いた。
歯は入歯でしたが、それが鉄漿かねでも附けたかのように真黒で、黄楊つげで造らせたとのことでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
或る時は薄化粧して鉄漿かねつけた公達きんだちの姿となり、或る時は野性そのままの牧童の姿して舞台の上に立つけれども、その天成の美少年であることは、芸をかえることによっても
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
白蝋はくろうの御両頬には、あの夏木立の影も映らむばかりでございました。そんなにお美しくていらっしゃるのに、縁遠くて、一生鉄漿かねをお附けせずにお暮しなさったのでございます。
(新字新仮名) / 太宰治(著)
硬い首をえ、東京へ来てからまだ一度も鉄漿かねをつけたことのないような、歯の汚い口に、音をさせて飯を食っている母親の様子を、よく憎さげに真似してみせた父親の顔に思い合わせて
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び其上へ頬冠りをして鉄砲をかつひで行きました。処が私は鉄漿かねを付けて居るから兵隊共が私の顔を覗き込んで、御卿様おくげさまだなどと戯謔からかつて居りました。
千里駒後日譚 (新字旧仮名) / 川田瑞穂楢崎竜川田雪山(著)
「何か食べさっしゃるかね。」という、その歯は黒く鉄漿かねで染めている。
木曽御嶽の両面 (新字新仮名) / 吉江喬松(著)
貞之進ははなはだ遺憾のこりおしげに帰りかゝる時、すっきりとした三十三四の鉄漿かねつけた内儀ないぎが礼に出て、門口まで送って来たが、歌ちゃん明日は縁日ですよと婢が云うを、小歌はそれには答えずして
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
やぶいり鉄漿かねもらひ来るかさの下
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
田原屋には四人の女中がありまして、その女中がしらを勤めているのはおはまという女で、三十一二で、丸髷に結って鉄漿かねをつけていました。
高廉こうれんあかくちをあいて笑った。黒紗こくしゃぼう黒絹くろぎぬ長袍ながぎ、チラとすそに見えるはかまだけが白いのみで、歯もまた黒く鉄漿かねで染めているのであった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と尻ッぱねの上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿かねを含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊ひきしまった顔立の中年増ちゅうどしま
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
二枚の門歯の根の方が鉄漿かねを染めたやうに黒く、右の犬歯の上に八重歯が一つ、上唇うわくちびるの裏へ引っかかるほどに尖っていて、それをあどけないと云う人もあろうが
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「そのために私は、眉も剃り落し、嫌いな鉄漿かねをつけ、それでも足りなくて、前歯まで一本欠きました」
「君はいったい、誰に見せようとして、べに鉄漿かねとをつけているのであるか。」
紋縮緬もんちりめんかなにかの二つ折りの帯を巻いて前掛のような赤帯を締めて、濃い化粧のままでべにをさした唇、鉄漿かねをつけた歯並はなみの間から洩るる京言葉の優しさ、年の頃はお松より二つも上か知らん
その途端、黒々と鉄漿かねをつけた歯がのぞいた。
やぶ入や鉄漿かねもらひ来る傘の下
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
西八条や薔薇園の女房たちの脂粉しふんをながした川水に、今では、京洛きょうらくに満ちる源氏のともがらが、鉄漿かねき水や、兵馬の汚水を流しているのである。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
恍惚うっとりしたようにえみを含む口許くちもとは、鉄漿かねをつけていはしまいかと思われるほど、婀娜あだめいたものであった。
春昼後刻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
うすい鉄漿おはぐろあとが……。で、たぶん鉄漿かねをつけている女が袂から手拭を出したときに、ちょいと口にくわえたものと鑑定して、おはぐろの女ばかり詮議したわけです。
昔のうら若い女房が鉄漿かねを染めた口元にあの玉虫色の紅をつけてゐたとしたら、その青白い、血の気や赤味の微塵もない顔のなまめかしさは、どんなであつたらうかと思ふ。
青春物語:02 青春物語 (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「女の口から——鉄漿かねはつけているけれど——あの人まだ二十二になったばかりよ。その若い女の口から、平次親分に岡惚れしたっていうのは、よくよくじゃありませんか」
せいぜいここ一二年がところかせいで、それからあなたのおっしゃる通り、このあわらの温泉へ温泉宿を経営いたします、そうして丸髷まるまげに結って、鉄漿かねをつけて、帳簿格子の前にちんとおさまって
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
無数の白粉の女の中には眉目美みめよいのも稀にあって、中には、もう四十にちかい容貌に、鉄漿かねを黒々つけ、比丘尼頭巾びくにずきんにくるまって、夜寒をかこち顔でいるなど
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あわれ、茄子なす、二ツ、その前歯に、鉄漿かねを含ませたらばとばかり、たとえんかたなく﨟長ろうたけて、初々しく且つなまめかしい、唇を一目見るより、と外套の襟を落した。
わか紫 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「手拭をお持ちですかと云って……。娘や子供には用はねえ。鉄漿かねをつけている人だけでいいんだ。もし手拭を持っていねえと云う人があったら、すぐに俺に知らせてくれ」
鉄漿かねをふか/″\とつけて何処かに尋常な俤のある僧の、さっきから隅の方に引っ込んでじっと考え込んでいたのが、ふと、ではわたしの身の上を聞いて下さいますかと云って
三人法師 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「だって、私だって名ぐらいはあろうじゃないか。」と鉄漿かねつけた歯をらしたが、笑うのも浮きたたぬは、渾名あだなを火の玉と聞いたのが余程気になったものであろう。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
もう人の女房である筈の年頃だが、鉄漿かねをつけていない上にあどけなくしているので、存外見た眼では若々しいが、二十六か七ぐらい——その辺だろうと彼は見ていた。
八寒道中 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一見して明治期の俳優の血筋を引いていることがうかがわれ、こう云う人が昔に生れて、まゆを落し、鉄漿かねをつけ、すそいていたらどんなに似つかわしかったであろうと思われるのであったが
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
四十に近い古女房が鉄漿かねぐろの口をゆがめて、暗い庭さきを眺めていた。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「骨のあるがんもどきかい、ほほほほほほ、」と笑った、垢抜あかぬけのした顔に鉄漿かねを含んで美しい。
三尺角 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
尤も、小普請こぶしんの石川家には、昔から女子は夭折はやじにするという遺伝があって、それには、左の指の爪を、歯のように、鉄漿かねで染めれば育つという申し伝えもありましたのです
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)