とろ)” の例文
夫人の温い薫るやうな呼吸が、信一郎のほてつた頬を、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体中が、とろけてしまひさうな魅力を感じた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
其中そのうちにお腹もくちくなり、親の肌で身体もあたたまって、とろけそうない心持になり、不覚つい昏々うとうととなると、くくんだ乳首が抜けそうになる。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
白地に星模様のたてネクタイ、金剛石ダイアモンド針留ピンどめの光っただけでも、天窓あたまから爪先つまさきまで、その日の扮装いでたち想うべしで、髪から油がとろけそう。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
私といふものゝ存在をあなたのまはりにまとはせ、きよらかな、力に滿ちた焔の中に輝きながら、あなたと私を一つにとろかしてしまふのだ。
なんまんだぶつと呟くやうに称名する大勢のものの声は、心の底から自らとろけでるやうに室中へやぢゆうに満ちた。かすかに鼻をすゝるものさへあつた。
夜烏 (新字旧仮名) / 平出修(著)
橋廊下の阿娜あだな女は、片肱かたひじのせた欄干に頬づえついて、新九郎の後ろ姿をいつまでもじっと瞳の中へとろけこむほど見送っていた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「はい、/\。よく覚えとりますでございます。」爺さんはとろけさうな顔になつた。「旦那様はあの折、手前に五十仙下さいましたつけ。」
苛々いらいらしさ……何よりも芸術の粋を慕ふ私の心は渾然としたその悲念のとろましさにわけもなくいぢめられ、魅せられ、ひき包まれ、はたまた泣かされる。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
「あれさ、お前」梅仙女は犇々と三十郎の身体に絡み付いて、その邪悪妖艶な魔手の中にとろかし込もうとします。
りつけるやう油蝉あぶらぜみこゑ彼等かれらこゝろゆるがしてははなのつまつたやうなみん/\ぜみこゑこゝろとろかさうとする。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
「だツてさ、お前、其様なにおツちや、くろめとろけてお了ひなさるよ。じようだんじやないわね。」
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
素晴らしい音締ねじめの撥さばきが、若い女の甘いあだっぽいとろけるような唄声と一緒に流れてきた。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
そのかざぬしも全くもうとろけて了って、ポタリポタリと落来る無数のうじは其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽はみつくされて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方こッちの番。
半焦の腱によつて互に引吊られ或ひは半ばとろけた肉塊の粘りで共に膠着し合つてゐるボロ/\に折れ崩れた人骨、煑沸された腦髓、石炭とざつて煮凝にこごりになつた血、強烈な竈の火熱の中で
無法な火葬 (旧字旧仮名) / 小泉八雲(著)
とろけた金のまみれつく液汁木質さながらだつた。
徳市はとろけるような顔をしてうなずいた。
黒白ストーリー (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
夫人の温いかおるような呼吸が、信一郎のほてった頬を、柔かにでるごとに、信一郎は身体中からだじゅうが、とろけてしまいそうな魅力を感じた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
りつゝ、たましひからさきとろけて、ふら/\とつた若旦那わかだんな身體からだは、他愛たわいなく、ぐたりと椅子いすちたのであつた。于二女之間恍惚夢如にぢよのあひだにくわうこつとしてゆめのごとし
みつ柏 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
玉枝は、父子おやこ喧嘩を取做とりなすようにそう言って、帛紗ふくさから出した小筥こばこを、卓の端にのせた。古代蒔絵こだいまきえとろけそうな筥である。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
軟かみのある語韻の九州には珍らしいほど京都風なのに阿蘭陀訛のとろけ込んだ夕暮のささやきばかりがなつかしい。
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
喜田氏は独語ひとりごとを言ひながら、夢を見るやうな心持で、しつ一杯のけぶりのなかにとろけさうになつてゐた。大きな鼻のあなからは、白いけぶりが二筋のつそりと這ひ出してゐた。
丸窓の小障子は外れていて、外に竹藪のある中に、ハアト形にどんよりと、あだ蒼い影が、ねばねばと、鱗形うろこなりとろけそうに脈を打って光っている。
露萩 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
情炎にとろけた三人の目が、いかにも、いやしげに、お蝶の襟や横顔の肉線をむさぼる如く見つめている。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それを聞くと、延若と福助とは、「そらまたいつもの成駒屋のお上手が始まつた。」と、互に顔を見合はせて首をすくめたが、正直者の雲右衛門は急に蜂蜜のやうにとろけさうな顔になつた。
幽愁のいぶし、疲労と陰影の薄笑ひ、眩暈中の杏仁水、それらから来る寂しさ、悲しさ、なつかしさ、さうした優しさ果敢なさとろましさが私にはあの悲み極まつた純情の嗚咽、あらゆる観念の寂び
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
「……解けてほぐれて逢う事もか。何をやがる。……此方こっちい加減にとろけそうだ。……まつにかいあるヤンレ夏の雨、かい……とおいでなすったかい。」
浮舟 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いかにも艶冶えんやな桃色の中へ心までとろけいったさまで、新助の半畳はんじょうなどには耳を貸している風もない。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
とろけたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ
第二邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
長襦袢ながじゅばん総染そうぞめの小桜で、ちらちらと土間へ来た容子ようすを一目、京都から帰ったばかりの主人あるじが旅さきの知己ちかづき、てっきりとろけるものと合点して、有無を部屋へ聞かないさきから
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
とろけゆく雲のまろがり
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
が、ただ先哲、孫呉空は、蟭螟虫ごまむしと変じて、夫人の腹中に飛び込んで、痛快にその臓腑ぞうふえぐるのである。末法の凡俳は、咽喉のどまでも行かない、唇に触れたら酸漿ほおずきたねともならず、とろけちまおう。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)