悶々もんもん)” の例文
幻聴の中では、彼の誠意をわらうシイカの蝙蝠こうもりのような笑声を聞いた。かと思うと、何か悶々もんもんとして彼に訴える、清らかな哀音を耳にした。
(新字新仮名) / 池谷信三郎(著)
悶々もんもんとしているよりも、まだ会社の仕事をしている方が気がまぎれそうな気がしたので、いつもよりは三十分も遅れて出社した。
第二の接吻 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
物陰にいた馬超は激怒して、韓遂が帰るや否、彼を成敗するとたけったが、旗本たちに抱き止められて、悶々もんもんと一時剣をおさめた。
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「暮れて帰れば春の月」と蕪村ぶそんの時代は詩趣満々ししゅまんまんであった太秦うずまさを通って帰る車の上に、余は満腔まんこうの不平をく所なきに悶々もんもんした。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
緑雨の失意の悶々もんもんがこの冷静をよそおった手紙の文面にもありあり現われておる。それから以後は全く疎縁になってしまった。
斎藤緑雨 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
あアそうだ外の事は一切不満足でも、只同情ある殊に予を解してくれたお繁さんに逢えたら、こんな気苦しい厭な思いに悶々もんもんしやしないにきまってる。
浜菊 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
転げつ、倒れつ、悶々もんもんのたうち返る美人の肉塊にっかいの織りす美、それは白いタイルにさあっと拡がってゆく血潮の色を添えて充分カメラに吸収された。
電気風呂の怪死事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
悶々もんもんたる人間の利己主義を脱して、瞑思めいしする人間の同情心に達する。彼のうちには賛美すべき感情が花を開く、自己の忘却と万人に対する憐憫れんびんとが。
すると、泡鳴氏は後むきになって横になっていた。清子はその背中から、悶々もんもんとしている憂愁を見てとった。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
彼はつひに心を許し肌身はだみを許せし初恋はつごひなげうちて、絶痛絶苦の悶々もんもんうちに一生最もたのしかるべき大礼を挙げをはんぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
吉助は愚物ながら、悶々もんもんの情に堪えなかったものと見えて、ある夜ひそかに住み慣れた三郎治の家を出奔しゅっぽんした。
じゅりあの・吉助 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
何よりも苦しいことは、性慾ばかりが旺盛おうせいになって、明けても暮れても、セクスの観念以外に何物も考えられないほど、はげしい情火に反転悶々もんもんすることだった。
老年と人生 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
人並みに都を出たのはよかったが、どうにも、都に残した妻子のことが思い切れず、日夜悶々もんもんとしておったのじゃが、この有様が他の人にわからぬはずはない。
とにかく、李陵りりょう悶々もんもんの余生を胡地こちに埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
ここにおいて衛生上の営養と快心的の娯楽と一時に奪ひ去られ、衰弱とみに加はり昼夜悶々もんもんたちまち例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
悶々もんもんのうちにも忘れようとしたことであろうが、このつるぎのふたつどもえに関連して、大岡のおの字も思いよらない大膳亮としては、すでに大の乾雲を手にして
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
彼は大きな手柄をたてた。——このところで彼は、祖父の武勇だんから取って来たいくつかのくだりを自分の話に織り込んだ。——彼女はその間に、悶々もんもんのあまりに病気になった。
さすがに冷淡にはお取り扱いにはならないで、人づてのお返辞はくださるというのであったから、源氏は悶々もんもんとするばかりであった。次第に夜がふけて、風の音もはげしくなる。
源氏物語:20 朝顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
男というものが彼女の目に映る様になり、人生というものがハッキリ分ってしまって来るに従って、悶々もんもんじょうは巨大な化物の様に生長して行った。そして、遂に恐ろしい破綻はたんが来たのだ。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
或いはまた、御亭主殿を失った精力の有り余る海女あまは、情念が昂進して来ると、夜中でも飛び起きて、海で遊んで来ないことには、どうにもこうにも、悶々もんもんの肉体をもてあますのだとのこと。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
始め四宿の遊びを買いあさり、悶々もんもんを慰めるというすべもあろうが、何んの因果か、拙者はその気になれない。遊女に戯れて安価な慰めなどを得る気の重いのは、恐らく御貴殿も御同様であろう
一本立ちの出来ない低能児のように見做みなされるのが、非常に不服なのであるが、さればと云ってその不服を聴いてくれる友達もなく、悶々もんもんの情を胸の中に納めていると、何となく独りぽっちな
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そして彼はひとりやみの中にとりのこされ、暁方あけがたまで悶々もんもんするのだが、不思議なほどもろくなった心には、自分が過去に書いてきた作品さえが、まるで別人の仕業しわざのように思われ出してくるのだ。……
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
野狐やこ風流五百生、私は転々悶々もんもんとして、永遠に野狐であるらしい。
野狐 (新字新仮名) / 田中英光(著)
悶々もんもんほばしらけぶるたたずまひ
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
と、蔦之助つたのすけはまた悶々もんもんとだまって、いまはただ、この民部の頭脳ずのうに、神のような明智めいちがひらめけかし、とジッといのるよりほかはなかった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
足利あしかが時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かったにもかかわらず、薩長さっちょうに売られて、朝敵の汚名おめいを取り、悶々もんもんうちに憤死したことや
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
純真な大隅学士は、心の痛手にたえやらず、悶々もんもんとして下宿の一室に閉じ籠り、一歩も外に出でなかった。そのうちにも彼の心はただ一つのことを念じていた。
地球盗難 (新字新仮名) / 海野十三(著)
何十年来シベリヤの空をにらんで悶々もんもん鬱勃うつぼつした磊塊らいかいを小説に托して洩らそうとはしないで、家常茶飯的の平凡な人情の紛糾に人生の一臠いちれんを探して描き出そうとしている。
二葉亭追録 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
そうして、その悶々もんもんの情をいだきながら、己はとうとう己の恐れていた、しかも己の待っていた、この今の関係にはいってしまった。では今は? 己は改めて己自身に問いかけよう。
袈裟と盛遠 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
お聞きもいただきたいと存じながら果たしえませんことで悶々もんもんとしておりました
源氏物語:20 朝顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
それから数日のあいだ、良斎は悶々もんもんとして楽しまぬ日を送った。
影男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
悶々もんもんとして、あれからの一角は、旅が、はかどらなかった。悪い原因は、もう一つある。それは懐中ふところに、兵部から貰った多分な金があることだ。
無宿人国記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼に悶々もんもんの悩みをめさせ、それが半ば偶然であるとはえ、勝彦を操ることに依って、畜生道の苦しみを味わせた自分を死の刹那に於て心から信頼している。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
再び上京したらと元気を附けてやった事もあったが、盛返す勇気もなくて悶々もんもん数年の後、ついに大正四年の初冬に別府の同情深い友の家で淋しい敗残者の生涯を終った。
私はまた長い間口へ出してお願いすることができませんで悶々もんもんとしておりました
源氏物語:13 明石 (新字新仮名) / 紫式部(著)
失恋の傷手いたで悶々もんもんたる烏啼の奴は、今頃はやるせなさのあまり、君の心臓を串焼きなんかにして喰べてしまったかもしれないよ。とんでもないことだ、そんなことは安東に話してやれないな”
藤田伝五や四方田政孝などが痛言した——この気持のままでは戦場へけない——という悶々もんもんたるものは、光秀の胸にも勿論あるにちがいない。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
村川が悶々もんもんとして不眠の夜を過ごしていることなどは、少しも京子の神経にふれなかった。
第二の接吻 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
私は、悶々もんもんとして、二時間ばかり、そこに時間を過ごしていたであろう。
地球要塞 (新字新仮名) / 海野十三(著)
曹操は悶々もんもん、自己を責めた。幾日かを空しく守りながら陣小屋の内にかくれて、じっと軍書にばかり眼をさらしていた。
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分の寝室へ帰って来てからも、勝平は悶々もんもんとして、眠られぬ一夜を過してしまった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
信長に面罵めんばされ、饗応きょうおうの役を褫奪ちだつされ、憤然、安土あづちを去って、居城亀山へ去る途中、幾日もここに留まって、悶々もんもん、迷いの岐路きろに立ったものだが——
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十一日、十二日と二人は保土ヶ谷の宿で、悶々もんもんとして過した。
船医の立場 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
きのうも今日も、悶々もんもんと、彼はそれから離れることが出来なかった。残念という呟きは、自分へ向っていううめきであって、人をのろうため息ではない。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
秘事を、清盛にささやいたのは、遠藤盛遠であり、盛遠もまた、酒溺放逸しゅできほういつ、何か、自暴と悶々もんもんの影がい。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その悶々もんもんたる彼をも、総立ちとなった人々をも、正成はまた、まるで知らないかのような姿だった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かつは多くの部下も死なせ、日夜、やるかたない悶々もんもんを抱いていたところである。が、いまはまったく心身も冴え返った。呉用が来た。また思わざる味方が加わった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「さもあらん、さもあらん。——英雄の心情、悶々もんもんたるものがあろう」と、独りつぶやいていた。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
うみのごとく静かに、しかし悶々もんもんと、心には烈しい懐疑の波をうって考えこんでいる範宴少僧都をのせて、牛車の牛は、使いの首尾を晴れがましく、青蓮院の門前へ返った。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)