慰藉いしゃ)” の例文
どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもどんなに大きな慰藉いしゃであったかしれないと思う。
二十四年前 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
自分は母の言葉を聞きながら、この苦しい愛嬌あいきょうを、慰藉いしゃの一つとしてわが子の前に捧げなければならない彼女の心事を気の毒に思った。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
冬柏とうはく』所載の消息なども、そうしたものを書いて自ら慰藉いしゃしていられたのではあるまいかと思いますと、お気の毒にもなって来ます。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
それは旧説に、昔々エジプトの或王様が宮廷の図書室の戸口に「霊魂慰藉いしゃの宝庫」と誌した、と云う事が書いてあるからである。
愛書癖 (新字新仮名) / 辰野隆(著)
びても、詫びきれないような気もちから、自然、にじみ出る涙は、その傷者をして、無限な慰藉いしゃとなり、愛情の結びとなった。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これはローマ政府の迫害下にさらされた信者たちを慰藉いしゃ鼓舞こぶする実際上の必要から、急いで書かれた実際的なイエス伝であると思われます。
ある時まではそれに疚しさを感ずるように思って多少苦しんだことはある。しかしそれは一個の自己陶酔、自己慰藉いしゃにすぎないことを知った。
想片 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
バッハは最もよき慰藉いしゃであり、最もよき師父である。悲しみにも、よろこびにも、私は自分の心の反影をバッハの音楽に求める。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
事に依ったら、女にって、女が己に許すのに、己は従わないで、そして女をなるべく侮辱せずに、なだめて慰藉いしゃして別れたら、面白かろう。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
清三は自己の物思いの慰藉いしゃとしてつねにかわいがったので、「先生——林先生」と生徒は顔を見てよくそのあとを追った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
女は己を愛する者のためにかたちづくるという語も有る如く、女子はただ男子を慰藉いしゃするためにのみこの世に存在するものと認められていたから致方いたしかたない。
婦人問題解決の急務 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
自分からじゅうぶん胸を開いてしまわないのだから、今日ばかりは大木の慰藉いしゃによって、ことごとく胸の曇りをなくしたというわけにはゆかない。
廃める (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
同情のみが彼らの心を占領したらんには、彼らはただちにヨブにちかづいてあつき握手をなし以て慰藉いしゃことばを発したであろう。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
自然の慰藉いしゃと云うものを全然理解すべくもなかった彼には、その療養所を四方から取囲んでいるすべての山も森も高原も単に菜穂子の孤独を深め
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
というわけは多くの島の流人は、いつもそういう同情の深い水汲みを見つけて、それをたった一つの慰藉いしゃとしてきていたのが事実だからである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ことによったらもっとたちまさった花嫁を、どこかほかで捜し出せるに相違ないと腹の底から確信して、ちょっとの慰藉いしゃの念を感じたくらいである。
自分から造出す果敢はかない空想に身を打沈めたいためである。平生へいぜい胸底に往来している感想にく調和する風景を求めて、瞬間の慰藉いしゃにしたいためである。
放水路 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
しかし三津子さん夫婦にとっては、この楽器が毎日どんなに大きい慰藉いしゃをあたえているか判るまいとも思いました。
探偵夜話 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
存在するところのものは皆、このまれな善良な牧師にとっては、慰藉いしゃを求めながら常に悲哀に沈んでるのであった。
どこからも慰藉いしゃは来ない。自分の悲痛の内にも、それを見出みだす事が出来ない。そして男の涙の頬を伝わって流れるのを見て、その涙をうらやましく思った。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
君も早く感想兼自叙伝の印税で家内じゅうで特別旅行をするがいいと私は彼を慰藉いしゃしておいた。が、このぶるじょあ的諧謔かいぎゃくは彼には通じないようだった。
踊る地平線:09 Mrs.7 and Mr.23 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
痩せたる上に色さえおぼろ、見る影もないさまながら、なお床を這い板にたおるる患者のうちに、独り身を起していた姿、連添う身に、いかばかりの慰藉いしゃなりけむ。
わか紫 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「永遠なる再来」は慰藉いしゃにはならない。ツァラツストラの末期まつごに筆をつけ兼ねた作者の情を自分は憐んだ。
田舎へ来てから岸本がただ一人の親しい話相手であり、慰藉いしゃと刺激とを与えてくれたのもこの牧野であった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
城代はこの半月あまりのあいだ、竜神川の堤防工事と、町筋改修の犠牲になった人々に対して、賠償と慰藉いしゃの方法を立案して来た。それはまじめなものであった。
半之助祝言 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
毎日々々諸方を案内しつつ互に宏博こうはくなる知見を交換したのは、あたかもかごとりのように意気銷沈していた当時の二葉亭の憂悶不快を紛らす慰藉いしゃとなったらしかった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
事業という大きな慰藉いしゃがあって、毎日多くの時間をその方に没頭していればよいのでしたが、千代子にはそんなものはなくて、却って、里方から、夫の行蹟ぎょうせきについて
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
自己の職責をまっとうするということについて一種の慰藉いしゃを感じたらしく、この努力は彼が信じている怪談を理屈で説明してやるよりも遙かに好結果を奏したのであった。
ただ一人ベートーヴェンのみが、慰藉いしゃ的な新しい福音書の数ページを残していた。しかしそれを読み得る者は音楽家のみであった。大多数の人は理解できなかったであろう。
篠崎予審判事の口元にただようている微笑は、慈愛に満ちた慰藉いしゃの微笑ともとれれば、毒意に充ちた残忍な冷笑ともとれる。老教授は、冷たくなった紅茶をぐっと呑みほした。
予審調書 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
彼女の二つの大いなる使命は、逆境にあるバーグレーヴ夫人を慰藉いしゃするとともに、信仰の話で彼女を力づけようとした事と、疎遠になっていた詫びを言いに来た事とであった。
如何いかでこのままにやはあるべきと、いささ慰藉いしゃの文を草して答えけるに、爾来じらい両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石にりし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉いしゃの言葉に、どんなにかつえたことだろう。ことに、母か姉妹か、あるいは恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただろう。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、さびしい将軍の晩年に於てまた一の慰藉いしゃとなったことは、さっするに難からぬ。篠原良平が「寄生木」をのこした目的の一は達せられたのである。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
婆さんの治療費や慰藉いしゃ料を充分に払う。だから我慢して呉れと言うようなことをさ。
狂い凧 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
彼女はもう何もかも一切のわずらわしさを捨て、故郷に隠遁いんとんしてしまおうと決心したが、その心持ちを知る人に慰藉いしゃされて思い直し、末虎、照玉と共に旗上げをしてうつをなぐさめた。
豊竹呂昇 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
世界はぎ澄まされて、甘美に揺れ動くのだろうか。静かな慰藉いしゃに似たものがかすかに訪れて来たようだった。……だが、そうした時間もたちまちサイレンの音でち切られていた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉いしゃである、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
我が子の死 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
戦争見物とて交る交る高きに登れり、戦争は遠くして見えねど、事によせたる物見遊山も、また年中暇なき山賤やまがつ慰藉いしゃなるべし、そのうちに阿園は一人残されて心細くもその日を送れり
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
だが彼女は、その妊娠を慰藉いしゃする意味で相手の男からちょっとまとまった金をもらってきていた。吾平爺はその金を元手として、自分と娘の生活のためにもう一度奮い立たなければならなかった。
或る嬰児殺しの動機 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
しかし書物にも病人の慰藉いしゃにならずして悪い刺撃になるような淫猥いんわいなものが多いし、花にも梅だの罌粟けしだのというような人体に害するものあるからよほどその種類を選択しなければならんよ
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
単なる慰藉いしゃや、叱責や、教訓などでは、どうにもならなかった彼も、一緒に旅に出て難儀をしたころのことが、しみじみと孔子自身の口からかたられるのを聴いていると、次第に人心地がつき
論語物語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
長羅の父の君長は、きさきを失って以来、饗宴を催すことが最大の慰藉いしゃであった。ぜなら、それは彼の面前で踊る婦女たちの間から、彼は彼の欲する淫蕩いんとうな一夜の肉体を選択するに自由であったから。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
古老の話によると、旧幕以来、こういう災害のあとには金魚は必ず売れたものである。あらびすさんだ焼跡やけあとの仮小屋の慰藉いしゃになるものは金魚以外にはない。東京の金魚業一同は踏み止まって倍層商売を
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
人の話にりますと、ユーゴー、バルザックほどの大家でも、すべて女性の保護と慰藉いしゃのおかげで、数多い傑作をものしたのだそうです。私も貴下を、及ばずながらお助けする事に覚悟をきめました。
(新字新仮名) / 太宰治(著)
私には宗教の慰藉いしゃなどよりも大いなる慰藉になるので、一も二もなくその会話の渦中に投じて、しゃべったり、笑ったり、鏡のなかへ死骸のように青くゆがんで映った人の顔にふざけたりしたので、三
下座遠く手をつかえた二人を見て、仇討詮議せんぎの労苦をねぎらわれ、また、重蔵には特に桔梗河原での奇禍を心から慰藉いしゃされた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
考えているうちに、人間の運命というものが朧気おぼろげながら眼の前に浮かんで来ました。私は兄さんのために好い慰藉いしゃを見出したと思いました。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それでもこの寒く冷たい寝床の上で、強烈な日光と生命のみなぎった南国の天地を思うのはこの上もない慰藉いしゃであった。
病室の花 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
病院をでてもいく家はない。ってる人もない。安藤が自分の家へつれて帰ったものの、慰藉いしゃのあたえようもない。花前はときどき相手あいてかまわず
(新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)