“相(しやう)” の例文
楚(そ)の威王(ゐわう)、莊周(さうしう)の賢(けん)なるを聞(き)き、使(つかひ)をして(三一)幣(へい)を厚(あつ)うして之(これ)を迎(むか)へしめ、(三二)許(ゆる)すに相(しやう)と爲(な)すを以(もつ)てす。莊周(さうしう)笑(わら)つて楚(そ)の使者(ししや)に謂(い)つて曰(いは)く
魏(ぎ)、相(しやう)を置(お)き、(八九)田文(でんぶん)を相(しやう)とせり。呉起(ごき)悦(よろこ)ばず。田文(でんぶん)に謂(い)つて曰(いは)く(九〇)『請(こ)ふ子(し)と功(こう)を論(ろん)ぜん、可(か)ならんか』と。田文(でんぶん)曰(いは)く、『可(か)なり』と。
是(ここ)に於(おい)て呉起(ごき)、公主(こうしゆ)の・魏(ぎ)の相(しやう)を賤(いや)しむを見(み)、(一〇四)果(はた)して魏(ぎ)の武矦(ぶこう)に辭(じ)す。武矦(ぶこう)之(これ)を疑(うたが)うて信(しん)ぜず。呉起(ごき)、罪(つみ)を得(う)るを懼(おそ)れ、遂(つひ)に去(さ)り、即(すなは)ち楚(そ)に之(ゆ)く。
晏平仲嬰(あんぺいちうえい)は、(三六)莱(らい)の夷維(いゐ)の人(ひと)也(なり)。齊(せい)の靈公(れいこう)・莊公(さうこう)・景公(けいこう)に事(つか)へ、節儉力行(せつけんりよくかう)を以(もつ)て齊(せい)に重(おも)んぜらる。既(すで)に齊(せい)に相(しやう)として、(三七)食(しよく)は肉(にく)を重(かさ)ねず、妾(せふ)は(三八)帛(きぬ)を衣(き)ず。
田文(でんぶん)既(すで)に死(し)して、公叔(こうしゆく)、相(しやう)と爲(な)る。((公叔))(九三)魏(ぎ)の公主(こうしゆ)に(九四)尚(しやう)し、而(しかう)して呉起(ごき)を害(い)む。公叔(こうしゆく)の僕(ぼく)曰(いは)く、『起(き)は(九五)去(さ)り易(やす)し』と、公叔(こうしゆく)曰(いは)く、『奈何(いかん)せん』と。
晏子(あんし)、齊(せい)の相(しやう)と爲(な)り、出(い)づ。其(その)(五六)御(ぎよ)の妻(つま)、(五七)門間(もんかん)より其夫(そのをつと)を窺(うかが)ふ。其夫(そのをつと)、相(しやう)の御(ぎよ)と爲(な)り、(五八)大蓋(たいがい)を擁(よう)し、(五九)駟馬(しば)に策(むちう)ち、(六〇)意氣揚揚(いきやうやう)として甚(はなは)だ自得(じとく)せり。
昭矦(せうこう)用(もつ)て相(しやう)と爲(な)し、内(うち)、政教(せいけう)を修(をさ)め、外(ほか)、諸矦(しよこう)に應(おう)ずること十五年(ねん)、申子(しんし)の身(み)を終(をは)るまで、國(くに)治(をさ)まり兵(へい)彊(つよ)く、韓(かん)を侵(をか)す者(もの)無(な)かりき。申子(しんし)の學(がく)は、(四二)黄老(くわうらう)に本(もと)づき、(四三)刑名(けいめい)を主(しゆ)とせり。
晏子(あんし)は長(た)け六尺(しやく)に滿(み)たず、身(み)齊國(せいこく)に相(しやう)として、名(な)諸矦(しよこう)に顯(あら)はる。