惑溺わくでき)” の例文
泡鳴はいつも物質に惑溺わくできしていて、その惑溺のうちに恋愛と神性とを求めていた。彼は暫くも傍観者として立ってはいられなかった。
それでいて彼はやっぱり彼女の黒い目や、惑わしい曲線の美しさをもったほおや、日本画風の繊細な感じに富んだ手や脚に惑溺わくできしていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
この説明好きの男にもわかれたくなった。加奈子はこれ以上、ここに居ると何か嫌悪以上の惑溺わくできに心も体も引き入れられるような危い気がした。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
信仰の心においてつくりつつも、ふとそれを離れて、思わず美へ惑溺わくできした人のひそかな愉悦を、また戦慄せんりつを、私は思わないわけにゆかなかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
自然の風景に惑溺わくできして居る我の姿を、自覚したるときには、「われ老憊ろうばいしたり。」と素直に、敗北の告白をこそせよ。
何よりも彼等は、浪漫派の上品な甘ったるさと、愛や人道やに惑溺わくできしている倫理主義を、根本的にきらったのである。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
私は然しいささか美に惑溺わくできしているのである。そして根柢こんてい的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。
特攻隊に捧ぐ (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
哀れな女は教師とともにペテルブルグへ落ちのびて、そこできわめて奔放自由な解放エマンシペーション惑溺わくできしていたのであった。
張出窓での百合ゆり花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺わくできといふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来デウスにょらい! 邪宗じゃしゅう惑溺わくできした日本人は波羅葦増はらいそ天界てんがい)の荘厳しょうごんを拝する事も、永久にないかも存じません。
神神の微笑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「それは君はそう言うでしょう。けれど、それでは私は監督は出来ん。恋はいつ惑溺わくできするかも解らん」
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
それと並行して、当時の読書界の流行は、私までもロシア文芸の惑溺わくできに引き摺り込んでしまった。
市十郎も、嘘をおぼえ、悪智をしぼり、教養を麻痺まひせしめ、あらゆる惑溺わくできを、急速にして行った。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
二人の自然な愛情はなくて、重吉が決して惑溺わくできすることのない女の寧ろ主我刻薄な甘えと、ひろ子がそれについて自卑ばかりを感じるような欲情があるというのだろうか。
風知草 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
筆者は少年のころから専らにんじゅつを愛好しかつ惑溺わくできするあまり、これが史的事業の検覈けんかくと究明のため、文献を渉猟し遺跡を踏査して、すでにその蘊奥うんおうをきわめているが
その口癖がつい乗った男の方は、虚気うつけ惑溺わくできあらわすものと、心付いた苦笑にがわらいも、大道さなか橋の上。思出しわらいと大差は無いので、これは国手せんせい我身ながら(心細い。)に相違ない。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
およそ左道さとう惑溺わくできする者は、財をむさぼり、色を好み、福を僥倖ぎょうこうに利し、分を職務に忘れ、そと財をかろんじ、義をおもんずるの仁なく、うち欲にち、身を脩るの行なく、うまれて肉身の奴隷となり
教門論疑問 (新字新仮名) / 柏原孝章(著)
青年時代の或る時期に私は(ヴィヨンの詩と共に)ファーガスンの詩に惑溺わくできしていた。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
この二つが果して両立するものかどうか?———今から思うと馬鹿ばかげた話ですけれど、彼女の愛に惑溺わくできして眼がくらんでいた私には、そんな見易みやすい道理さえが全く分らなかったのです。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そもそもこの物理学の敵にして、その発達を妨ぐるものは、人民の惑溺わくできにして、たとえば陰陽五行論いんようごぎょうろんの如き、これなれども、幸にして我が国の上等社会には、その惑溺はなはだ少なし。
物理学の要用 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に、惑溺わくできして了ったのでございます。私は考えました。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
もちろん人によっては而立じりつの年に至っても立ち得ず、不惑ふわくの年に至ってなお惑溺わくできの底にあり、知命ちめいの年に焦燥して道を踏みはずし、耳順じじゅんの年に我意をもって人と争うこともあるであろう。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
羅はそれに惑溺わくできして通っていたが、そのうちに娼婦おんなは金陵へ返っていった。
翩翩 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
そういうような悪徳に都合のいい手段に励まされて、生来の気質はすぐに二倍もはげしくなり、私は常軌を逸した飲み騒ぎに惑溺わくできし、普通の世間体の拘束さえもとばしてしまったのだった。
私は私の深刻なる真面目なる努力が遊戯にしてしまわれはしまいかと心配せずに女を求むることはできなかった。私は処女は駄目なんだろうかと思った。酒と肉と惑溺わくできとの間には熱い涙がある。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
ほとんど惑溺わくできするかと思うほどに、愛情が深くなってゆきました。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
妻に惑溺わくできしているように思ったりしているようです。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
一たん求道の志を捨てて享楽にはしってみたものの現実に全面的に惑溺わくできすることが出来なかったのを見ても察せられる。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
かの異端的快楽主義に惑溺わくできしたワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
ベトオフェンの第六交響楽レコオドへの惑溺わくできというような事は皆この要求充足の変形であったに相違なく
智恵子の半生 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
だのに、ともするとあえぎ出して参りました。名声に酔い、惑溺わくできにひきこまれ、その疲れをいやそうとします。そうしているまに近頃は悪いと知りながら肉体をこわして参ります。
梅颸の杖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
恋の力は遂に二人を深い惑溺わくできふちに沈めたのである。時雄はもうこうしてはおかれぬと思った。時雄が芳子の歓心を得る為めに取った「温情の保護者」としての態度を考えた。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
少年は、自分が首になりつゝも知覚を失わないでいるような妄想もうそうを描き、それに惑溺わくできしたのである。彼は女の前へ順々に運ばれる首を、一つ/\自分の首であるかのように考えてみた。
私はH氏のものものしき惑溺わくできよばわりに憎悪を抱き、K氏の耽美主義に反感を起こし、M博士の遊びの気分に溜息をらす。M博士は私の離れじとばかり握ったたもとを振り切って去っておしまいなすった。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
なぜならば日本人は、今日なおこの特殊な俳句詩境に、あまりに深く惑溺わくできしすぎているからである。これについて吾人は、後に章を改めて別に論ずるところがあると思う。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
同化する、惑溺わくできするということは理想がないからです。美しい恋を望む心、それはやはり理想ですからな、……普通の人間のように愛情に盲従したくないというところに力がある。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
また悪くすると、その情熱が、刹那主義の求欲きゅうよくへ走ったり、みずから惑溺わくできを求めて、みずから逸楽いつらくに亡ぼうと急いで行ったり、とかく若さと熱と夢のやりばにりもなくむしばまれる。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこには野蛮蒙昧もうまいな民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺わくできがない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されている。
美の日本的源泉 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
長い人生の行路の途中でたまたま行きったに過ぎないルイズのような女にさえも肌を許すのに、その惑溺わくできの半分をすら、感ずることの出来ない人を生涯の伴侶はんりょにしていると云うのは
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
が、宋江はそれに惑溺わくできしきれない不幸児でもあったのだ。なるほど十九の婆惜ばしゃくは佳麗絶世といっていいが、その口臭こうしゅうにはすぐ下品を感じ出し、玉の肌にもやがては何か飽いてくる。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ふと露西亜ロシア賤民せんみんの酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだからえらい、惑溺わくできするならあくまで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
しかもかぎりなき惑溺わくできにみちてゐた。
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
小儒はおのれあってくになく、春秋のを至上とし、世の翰墨を費やして、世の子女を安きに惑溺わくできさせ、世の思潮をいたずらににごすを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
のみならず、あの男は、冀州きしゅうにいた頃も、常に行いがよろしくなく、百姓をおどして、年貢の賄賂わいろをせしめたり、金銀を借りては酒色に惑溺わくできしたり、鼻つまみにまれているような男ですから
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)