爛熟らんじゅく)” の例文
常子がけげんな顔で聞耳をたてているうちに、ドタバタ騒ぎはいよいよ爛熟らんじゅくして、駆けまわる足音に猿の叫び声までまじっている。
蝶の絵 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
都心の下層部もまたそうだが、もう都会中心の爛熟らんじゅくは、このへんでたくさんだとさえ思いたくなる。これ以上はまあ道路でもよくすればだ。
文化の日 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
健三はちょっと振り返って細君の余所行姿よそゆきすがたを見た。その刹那せつな爛熟らんじゅくした彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
御二方がべ給うておられた天平のみ代は、云うまでもなく我が民族の生命力が思いきって開花爛熟らんじゅくしたような時代であった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
このデカダン興味は江戸の文化の爛熟らんじゅくが産んだので、江戸時代の買妓ばいぎや蓄妾は必ずしも淫蕩いんとうでなくて、その中に極めて詩趣をきくすべき情味があった。
しかし、徳川文明の爛熟らんじゅくの結果、でかたんになった文化の昔、伊勢のお百姓の娘にそれをのぞむのは無理であろう。
朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた長い日の、のちである。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟らんじゅくした光りが、くるめき出したのである。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
梅八は江戸文化の爛熟らんじゅく末期から衰退期にかけて、その文化がもっとも端的に集約される世界で生きてきた。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸い匂いさえ感ぜられ、いちめんに春が爛熟らんじゅくしていて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾濫はんらんしていた。
八十八夜 (新字新仮名) / 太宰治(著)
文化の爛熟らんじゅくによる人間の官能と情感がいやが上にも発達し、現実的には高度の美意識による肉的なものを追ひ求める一方、歓楽極まつて哀愁生ずるたとへ通り、人々
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
つまり美のあらゆる範疇を日本美の健康性と清浄性とによって起死回生せしめねばならないのである。当今世界の近代美は爛熟らんじゅく廃頽はいたいと自暴自棄とに落ち込んでいる。
美の日本的源泉 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
王子のお滝という、名題の女巾着切きんちゃくきり、二十四五の豊満な肉体と、爛熟らんじゅくし切った媚態びたいとで、重なる悪事をカムフラージュして行く、その道では知らぬ者のない大姐御おおあねごです。
これは形が爛熟らんじゅくして、精神が消えてしまったのだ。舞踊の起った最初の歓喜の心を忘れて、末の形に走るようになったから、今、都の踊りに、見られた踊りは一つもない。
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
黒繻子くろじゅすえりのかかった着物を着て水茶屋の暖簾のれんのかげに物思わしげな女のなまめかしさ。極度に爛熟らんじゅくした江戸趣味は、もはや行くところまで行き尽くしたかとも思わせる。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
まだひげの生えない高等学校の生徒をそうして、「あなたはきっと晩年のギョオテのような爛熟らんじゅくした作をお出しになる」なんぞと云うのだが、この給仕頭のきょごとき眼光をもって見ても
けれども異国語の難関をのり越え、爛熟らんじゅくした生活感情を咀嚼そしゃくしてまで、老大国の文学を机辺の風雅とすることは、あまりに稚い民族には、いまだ興り得ない、精神の放蕩ほうとうであった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
白ギスに使うイトメの爛熟らんじゅくしてウミのようなドロドロしたのをバチが抜けるという。
江戸前の釣り (新字新仮名) / 三遊亭金馬(著)
あのときの若さと堅さとにくらべて、あやしいばかり、爛熟らんじゅくしたものを感じさせる。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
そこは、年増としまだ、爛熟らんじゅくのお初だ——じりじりと、妄念という妄念を、胸の奥で、沸き立てて見たあとは、そのほとばしりで、相手のからだをも、焼き焦がして見ずにはいられなくなる。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
そのうちに、花が咲いたと云う消息が、都の人々の心を騒がし始めた。祇園ぎおん清水きよみず東山ひがしやま一帯の花がず開く、嵯峨さが北山きたやまの花がこれに続く。こうして都の春は、愈々いよいよ爛熟らんじゅくの色をすのであった。
藤十郎の恋 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
絵画陳列室の金色のほこり燦然さんぜんたる爛熟らんじゅくせる色彩の庭、画面の立ち並んだ牧場、しかも空気の不足してるそれらの中にあって、クリストフは熱に浮かされ、半ば病気の心地だったが、はっと心打たれた。
そこの都市文化はあまりに早、爛熟らんじゅくを呈し、人はおごり、役人は賄賂わいろを好み、総じて唯物的風潮がみなぎっている。果たせるかな
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
余はやまいってこの陳腐ちんぷな幸福と爛熟らんじゅく寛裕くつろぎを得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
頭上ずじょうの騒動はいよいよ爛熟らんじゅくし、ポルトガル人の叱咜しったする声にまじって、帆柱の倒れる音や重いものを曳きまわす音、大鋸おおがで木を挽く音、手斧で打ち割る音
呂宋の壺 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
飛鳥あすか白鳳はくほうを通して次第に爛熟らんじゅくきたった民族の生命力が、聖武天皇において満ちあふれ、結晶し、思いきって咲き乱れたということ、この生命力を自らのいのちとし
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
果報者の本多忠刻を、三十一歳で夭死わかじにをさせた後の爛熟らんじゅくしきった若い未亡人の乱行。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
顔全体には、爛熟らんじゅくした文明の婦人に特有な、的な輝きがあった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
上層の驚かないのと、彼等の驚かないのとは、質はちがうが、いずれにしても、京都のもっている爛熟らんじゅく懶惰らんだ軽佻けいちょうの空気はすこしもあらたまらない。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宴はいよいよ爛熟らんじゅくし、主従同列に盃を舞わして、歓をつくしているうちに、首席国家老の川合蔵人くらんどだけは、盃もとらず、苦虫を噛んだような渋っ面で腕あぐらをかいて、むっつりと控えている。
無惨やな (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
けれど、過度な文化の爛熟らんじゅくと一部の繁栄には、必ずその下層に、それだけの奴隷力が、あえいでいるにきまっています。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
淀君の生活は、彼女とは反対に、それからにわか爛熟らんじゅくを迎えた花のように咲けるだけ狂い咲きに咲いて、そして、元和げんな元年の夏の陣に、大坂落城のほのおに散った。
日本名婦伝:太閤夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
脆弱ぜいじゃくな文化や、爛熟らんじゅくしすぎた知性には、たくましい野性を配することが、本来の生命力を復活するひとつの方法だし、また、余りに粗野で豪放にすぎる野性にたいしては
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近頃のように爛熟らんじゅくした中央の文化と小役人までが皆、平家の係累をひく者に満たされて、華美に過ぎてむしろ繊細せんさいなもののみを病的に愛する官能には、北条家のむすめ達など
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そんな爛熟らんじゅく末期の相は、汴梁べんりょう東京とうけいの満都の子女の風俗にさえ目にあまっていた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蝦夷えぞノ乱、地頭のわがまま、百姓の不平、府内の過度な爛熟らんじゅくと士風のすたれ、それにまた、高時の遊楽三昧ざんまいやら、権力の座をめぐる暗闘やら、山ほどな理由もかぞえられるが、それはみな
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
何もかも放漫にまかせていた斎藤家時代の爛熟らんじゅくだけをたたえて——それがゆえに、その斎藤家は三族までも滅び、城下の民も共に、外敵の侵攻と兵火のくるしみをあの如くうけて、今もなお
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一つの世界では、爛熟らんじゅくが早い、腐敗に陥りやすい、人間の闘争本能の吐け口が内訌ないこうする、予測せぬ不満がまた起るでしょう。そしてついに再び自潰じかいを起し、また再分裂の作用をかもし出す。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかしその統一本能が実現されても、ひとつなるものは極めて文化の爛熟らんじゅくから廃頽はいたいへの過程が早く、また忽ち、分裂を起しにかかる。しかも、その再分裂作用もまた本能的に不可避なのである。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
藤原氏がまつりの権を執っていたが、文化的には功績を残しても、その文化はやがて頽廃的たいはいてき懶惰らんだ爛熟らんじゅく末期まつごを生んできたばかりか、藤原一門自体が、ただ自己を栄華し、私腹をこやし、この世は
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
夏めく南風にも欠伸あくびが出、爛熟らんじゅくした花鳥もいたずらに倦怠けんたいです。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)