)” の例文
ぼくおもふに、いつたい僕等ぼくら日本人にほんじん麻雀マージヤンあそかた神經質しんけいしつぎる。あるひ末梢的まつせうてきぎる。勿論もちろんあらそひ、とらへ、相手あひてねら勝負事しようぶごとだ。
麻雀を語る (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
江戸城のほりはけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画のを以てするにくはない。
しかし抽斎は俳優のを、観棚かんぽうから望み見てたのしむに過ぎない。枳園は自らその科白かはくを学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って梆子つけを撃った。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
少女時代すでに天才をうたわれ、さる独逸ドイツ人音楽教授の愛弟子まなでしとなって、年と共にそのは進み、今では懇望こんもうされてステージに立つ事も屡々しばしばであった。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
などといっては、折角の機会を逸するので、義景の前で、たま百発をい、内六十八発を、まとにあててを示した。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その中にひとみきている。動かないでしかも活きている刹那さつなの表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速さそくに捕えた非凡のと云わねばならぬ。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
劇中の立女形たておやまふんするものを、路之助として、の意見、相背き、相衝あいついて反する時、「ふん、おれの情婦いろともしらないで。……何、人情がわかるものか。」
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
僕は又「韓非子」の中の屠竜とりゆうの話を思ひ出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下つて行つた。
歯車 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
〔譯〕刀槊たうさくきよ心をいだく者はくじけ、勇氣ゆうきたのむ者はやぶる。必や勇怯ゆうきよを一せいほろぼし、勝負しようぶを一どうわすれ、之をうごかすに天を以てして、廓然かくぜん太公たいこうに、之をしづむるに地を以てして、もの來つて順應じゆんおうせん。
熟達じゅくたつ、とうとう孫六遺愛のやすりを手がけようとして箱をひらいたのがせき正統せいとうの得印家に生まれて、何世かの兼光を名乗る、この子恋の森陰一軒家のあるじ、火事装束五梃駕籠の首領の老士であった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
むしろ巴里パリっ子であった。あまりにもフランス人的であり、巴里パリっ子気質であったかも知れない。マレシャルのチェロを聴いていると、私の神経までが針のようにとがって行く。——それは彫虫ちょうちゅうだ。
日本人は西洋より石版銅版の並に写真の術を習得せんがためには浮世絵木板の技術をして全く廃滅せしめずんばあらざりき。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
、これは麻雀界マージヤンかい論議ろんぎまとになつたことだが、麻雀マージヤンあそびといふより以上いじやううんあそびであることはあらそへない。
麻雀を語る (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
智音ちいん得可からず。衆愚度し難し。フラゴナアルの以太利イタリイに修めんとするや、ブウシエそのかうを送つていはく、「ミシエル・アンジユが作を見ることなかれ。彼が如きは狂人のみ」
入神にゅうしんの持主とは、そういう一瞬を地上に呼び降ろすひとのことをいう。けれどどんな名人を坐らせても、一方的にそれ独りでは天界の悦楽を地上に降ろすことはできない。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
において、ミケルアンゼロに及ばず、たくみなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武ほぶひとしゅうして、ごうゆずるところを見出し得ない。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
江戸城のほりけだし水の美の冠たるもの。然し此の事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画のを以てするにくはない。
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
主人はすぐに人を走らせて、近くにを売っている、松木蘭袋まつきらんたいと云う医者を呼びにやった。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
いつかの日本麻雀選手權大會にほんマアジヤンせんしゆけんたいくわいときのやうに百くみも百五十くみもの人達ひとたちが一だうあつまつてあらそふとなれば、紫檀したん卓子テーブルうへでぢかになどといふことはそれこそ殺人的さつじんてきなものになつてしまつて
麻雀を語る (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
寛保の末年浮世絵は西村重長(奥村政信門人)の工夫によりて初めて純然たる彩色板刻さいしきはんこく(二色板紅絵)の法を発明し宝暦に入りてその益〻進歩せり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
東海の画人多しとは云へ、九霞山樵きうかさんせうの如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅たいがすら、年三十に及びし時、意の如くの進まざるを憂ひて、教を祇南海ぎなんかいに請ひし事あり。
浮世絵は月岡芳年つきおかよしとしを最後として全く絶滅し、蒔絵まきえ鋳金ちゅうきん是真夏雄ぜしんなつおを失ひて以後また見るべきものなきに至りぬ。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)