微笑ほほえ)” の例文
「左様でございますか」と、半七は微笑ほほえんだ。「では、まことに申しにくうございますが、この御相談はお断わり申しとう存じます」
半七捕物帳:07 奥女中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
男の顔には絶望の微笑ほほえみが現れた。そして息を歯の間から出すようなささやき声で、「堪忍しろ」と云った。声は咳枯しわがれて惨酷に聞えた。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
あなたの言葉は田舎いなかの女学生丸出しだし、かみはまるで、老嬢ろうじょうのような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑ほほえましい魅力でした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ザビーネは往来で遊んでる自分の娘に微笑ほほえみかけていた。九時ごろに彼女は娘を寝かしに行き、それからまた音もなくもどってきた。
が、身を動かすのも大儀で、そのままじっとしていると、すぐ前の所に、淡い電燈の光を受けて、にこにこ微笑ほほえんでる男の顔があった。
林檎 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
別荘へは長男かしらわらべが朝夕二度の牛乳ちちを運べば、青年わかものいつしかこの童と親しみ、その後は乳屋ちちや主人あるじとも微笑ほほえみて物語するようになりぬ。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
少年は微笑ほほえんだ顔を時々私の方へ見せているだけで、また窓から往来を眺めているが、卓絶した気品はあたりを払わんばかりであった。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
やりきれないといった顔で、ちょっと、ナターシャに微笑ほほえんで見せ、それから、監視人のいる小屋のほうへ、大股に歩いて行った。
地底獣国 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
微笑ほほえんだ法水の眼には、儀右衛門の意外な変り方が映った。それは、懸命に唇を噛んで、なにかの激奮をこらえているかに見えた。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
そして、取り囲まれ、押しのめされ、微笑ほほえみながら、感動しつつ、自分のフロックのひだを、破れない程度に引き寄せる努力をしていた。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
一歩さがった左膳、タタタ! と平糸巻きの鞘を抜きおとして、蒼寒く沈む乾雲丸の鏡身きょうしんを左手にさげた。こともなげに微笑ほほえんでいる。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
気のいた弟は橋の向うへ走って行ったかと思ううちに、酒徳利を風呂敷包にして、頬を紅くし、すこし微笑ほほえみながら戻って来た。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
こんなふうに字に書くと乱暴にみえるが、かよの口から聞くと、子供っぽくて、あまくしっとりとして、微笑ほほえましいくらいである。
風流太平記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
詰問なじるように、吉野が、こう畳みかけて、言葉のうえで彼を愍殺びんさつしたばかりでなく、その小心さをさげすむように微笑ほほえんでいったので
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信号所の中から声をかけたのは彼と同じ囲いの官舎にいる西村にしむらだった。彼は振り返って微笑ほほえんだ。突然で言葉が出なかったのだ。
汽笛 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
和尚おしょうに対面して話の末、禅の大意を聞いたら、火箸ひばしをとって火鉢の灰を叩いて、パッと灰を立たせ、和尚はかたわらの僧と相顧みて微笑ほほえんだが
我が宗教観 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
かれは、お金を受取り、それから、へへん、というように両肩をちょっと上げ、いかにもずるそうに微笑ほほえんで私のところへ来て
親という二字 (新字新仮名) / 太宰治(著)
客は微笑ほほえみて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ちでて、かたえ椅子いすに身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
「大出来だ! 彼かならずしも鈍骨と言うべからず……」私もつい彼の調子につりこまれてこう思わず心の中に微笑ほほえんだほどだ。
遁走 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
これだけの文章にも、どこやら大村らしい処があると感じた純一は、独り微笑ほほえんで葉書を机の下にある、針金で編んだ書類入れに入れた。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そらいろがコバルトいろひかって、太陽たいようがにこやかに、ひがしのいきいきとした若葉わかばもりにさえ微笑ほほえめば、おじいさんは、かならずやってきました。
からすの唄うたい (新字新仮名) / 小川未明(著)
その表情の中には大人のような固い、皮のある微笑ほほえみがてついて見えた。姉はそれをまじまじ珍らしいもののように眺めた。
童話 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
人々は少し退いたが、元いた場所へはもどらなかった、そのうちに問われた男は気を落着かせ、ちょっと微笑ほほえみさえもらしながら、答えた。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
なよたけは文麻呂の胸にうずめていた顔を上げる。なよたけの涙も止った。輝かしい、この上もなく輝かしいなよたけの微笑ほほえみ。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
ひきがえるが出ていたち生血いきちを吸ったと言っても、微笑ほほえんでばかりいるじゃありませんか。早く安心がしたくもあるし、こっちはあせって
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
うしろからのぞき込むようにしていたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんどれ擦れになって、微笑ほほえみ合った。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
女は慇懃いんぎん会釈えしゃくをした。貧しい身なりにもかかわらず、これだけはちゃんとい上げた笄髷こうがいまげの頭を下げたのである。神父は微笑ほほえんだ眼に目礼もくれいした。
おしの (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
その右側には、新らしい、レーヨンの色彩的な、日本的パジャマをきたロボットが、微笑ほほえんでいた。男は、じっと、眺めて
ロボットとベッドの重量 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
「あなたは、私が好んであなたのお話を疑うとお思いのようですね」と、船医は僕があまりに窓のことを詳しく話すので微笑ほほえみながら言った。
と院がお言いになると、宮は無邪気に微笑ほほえんで、自分の芸がこんなにも認められるようになったかと喜んでおいでになった。
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
寂しい、悲しい、それでいて、何となく微笑ほほえましい、そんな気持ちで私はしばらく、彼の後姿を見まもった。彼の姿が見えなくなるまで……。
ともすると救いを求めるように弟の方へ微笑ほほえみかけて、兄に向っては、以前ほどはっきりと口をかなくなってしまった。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、微笑ほほえましくうなずけることだったに違いなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「あなたは花の鑑識家でございますね」と、ベアトリーチェは彼が窓から投げてやった花束を指して微笑ほほえみながら言った。
私が這入はいってゆくのを認めると、珈琲を飲みかけていた主人が私の方へ顔を向けて微笑ほほえみかけながら「ゆうべはよく眠れたか?」と英語でいた。
旅の絵 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
その子供の父は腕を組んでにこやかに微笑ほほえみながら、少し離れたところに立ってその可愛らしい仲間をながめています。
「そうだ。そこに面白い問題があるんだよ」と帆村はいかにも愉快そうに微笑ほほえんだ。「いまにだんだん判ってくるから」
ゴールデン・バット事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「なんて無邪気な性質なんだろう。なりは立派な娘だけれど、心は全然まるで赤ちゃんだよ」微笑ほほえみたいような心持ちをもって、彼女は姫のことを考えた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そんなときでもなければ垣間かいま見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。そう思ってみて堯は微笑ほほえんだ。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
それから数時間ののち、私は今川橋行きの電車の中で、福岡市に二つある新聞の夕刊の市内版を見比べて微笑ほほえんでいた。
空を飛ぶパラソル (新字新仮名) / 夢野久作(著)
と呼びかけて彼女はちらっと微笑ほほえんだが、それは『ドミートリイ・イオーヌィチ』と発音したとたんに例の『アレクセイ・フェオフィラークトィチ』を
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
久野は用事の意外なのに少し驚いたらしかったが、日焼けのした窪田の顔をそっと微笑ほほえみながら見上げて言った。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
と言って微笑ほほえみはしたけれども、その実はなんとなく、淋しい思いに襲われていることは、お松も同じことです。
大菩薩峠:34 白雲の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
月にすすきの花山車なども大小いろいろ。おもちゃ屋の店も全く変ってしまったが、今となってそれら幼稚の玩具を見ると、何がなしに微笑ほほえまるるも妙。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
しかし、霞たなびく春が訪れると、いつとはなしに、枯れたとみえる桜の梢には、花がニッコリ微笑ほほえんでおります。これがすなわち「空即ち是れ色」です。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
雲雀を揚げる時は晴れやかに微笑ほほえんだり物を云ったりする様子なので美貌びぼうが生き生きと見えたのでもあろうか。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「それでも」と野枝さんは微笑ほほえみつつ、「尾行びこうが申しましたよ。児供が出来てから大変温和おとなしくなったと。」
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
人々はよく私を現実を知らない夢みる人であるといった。私を包む青い憂愁の中にあって唯一つほのかに微笑ほほえむ白い花も実にこの心から生れたものであった。
語られざる哲学 (新字新仮名) / 三木清(著)
依然として無関心なるアウレリウスは微笑ほほえみながら口をつぐんで、美に就いてのかれらのお談議に耳を傾けてから、いつも疲れた気のなさそうな声で答えた。
それで、またかと思いながら、しかし、この識者を通してなら、一般の不審に向っても答える張合いがあるといった気持で、やや公式に微笑ほほえみながらいった。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)