呆然ぼうぜん)” の例文
贈り物の主は呆然ぼうぜん自失せざるを得なかった。迷信はおおむねかかる程度にまで、有識者、無識者を通じて露人の頭へ染み込んでおる。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
若者はそのみごとな仙術せんじゅつにみとれてしばらく呆然ぼうぜんとたたずんでいたが、やがてかんむりのひもをむすびなおすと、いそいそと帰っていった。
おしどり (新字新仮名) / 新美南吉(著)
続いてかけつけた私達は、ひとめお墓の前を覗き込むと、その場の異様な有様に打たれて、思わず呆然ぼうぜんと立ち竦んだのでございます。
幽霊妻 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
呆然ぼうぜんとこの場の怪奇をながめつくしていた幽霊係の助手の山形四段が、雪子の姿を追って後から組みつこうとしたが、それは失敗し
四次元漂流 (新字新仮名) / 海野十三(著)
馬に奔逃ほんとうされて、斬るべき機会を失って、我ながら呆然ぼうぜんとして、見えぬ眼に走る馬を見つめて、暫く立ち尽していたことも本当です。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ゲオルクは、ほとんど呆然ぼうぜんとしたまま、あらゆるものをつかむためベッドへ走っていこうとした。だが、途中で足がとまってしまった。
判決 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
大体が、臆病者揃いの公卿たちは、闇夜やみよにひらめく一閃いっせんのすさまじさに、かえって生きた心地もなく、呆然ぼうぜんと見ていただけだった。
黒羽二重の紋服一かさね、それに袴と、それから別に絹のしまの着物が一かさね、少しも予期していないものだった。私は、呆然ぼうぜんとした。
帰去来 (新字新仮名) / 太宰治(著)
今の家が仮の住居すまいであることは間違いのないことらしいから、どこかへ移って行ってしまった時に、自分は呆然ぼうぜんとするばかりであろう。
源氏物語:04 夕顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
呆然ぼうぜんとした時に、よくこんな語が思わず出るものである。ついでに絵なども習おう——といわれたには、かれも、少しまごついた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ある程度までの困苦に達すると、人は呆然ぼうぜんとしてしまって、もはや虐待を訴えもしなければ、親切を謝しもしなくなるものである。
芸術の手にゆだねられたクリストフは、思いもつかない未知の力が自分のうちから迸り出るのを見て、呆然ぼうぜんたらざるを得なかった。
自然に南のダラットの風物がまぶたに浮んで来る。あの時代を考へると、あまりにも、自分の生活の変りかたの激しさに、呆然ぼうぜんとして来るのだ。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
と、そこに佐平治が、呆然ぼうぜんとしてみつめているのも気づかぬらしく、夢中でつぶやきながら、ウロつきまわっているのです。
亡霊怪猫屋敷 (新字新仮名) / 橘外男(著)
彼は其眼の光よりも女の云い方の恐ろしさに呆然ぼうぜんとした。全くどうして好いのかわからなくなった。彼の眼の先へ恐ろしい獄舎の建物さえ浮んだ。
偽刑事 (新字新仮名) / 川田功(著)
その堂々たる武者押しを討手の勢はあっけに取られてただ呆然ぼうぜんと見ていたが、急に伝騎を走らせて彼方むこうの様子をうかがわせた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私は一寸ちょっと呆然ぼうぜんとした。Fの関係で私のことが分るとすれば、それは単にダラ幹組合の革命的反対派としてゞは済まない。オヤジの関係になるのだ。
党生活者 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
コンパスは狂いつづけ、舵機だきや、スクリウは、僕の命令に従わない。僕は、把手ハンドルから手を離し、呆然ぼうぜんとして腕組みした。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
そして呆然ぼうぜんと立った外国人の前で、くるりと背を見せて何やらまた楽しげに笑い興じながら、うららかなのさんさんと降りそそぐ道を歩んで行った。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
それらの様子を、三人が呆然ぼうぜんと見詰め、見廻わしているうちに、山鹿はそのドアーを閉め、それを背にして向き直った。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
次郎は呆然ぼうぜんとなって朝倉先生の顔を見つめた。かれは、この五六日、頻々ひんぴんと塾長あての電報が来るのを知ってはいた。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
そこでもし十台飛んで来れば五千か所の火災が突発するであろう。この火事を呆然ぼうぜんとして見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請け合いである。
からすうりの花と蛾 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
お妙は、町娘らしい何時もの内気うちきさをスッパリ忘れたように、こう言い切って、きッ! と父親を見上げた。壁辰と喬之助は、呆然ぼうぜんとして立っている。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
種彦はあまりの事に少時しばしはその方を見送ったなり呆然ぼうぜんとして佇立たたずんでいたが、すると今までは人のいる気勢けはいもなかった屋根船の障子が音もなくいて
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
この昇進の早さには定家自身呆然ぼうぜんとして、「二十八にて蔵人頭くろうどのとう、将相の家すらも猶以て幸運の輩なり」といったり
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
キシさんは、呆然ぼうぜんとそれをながめました。そして、よろよろと松の木にもたれかかり、今にも泣き出しそうでした。
金の目銀の目 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
「雪子が死んだ……」そう思うと封を切る手がふるえた。——チチシスアサ七ジウエノツク——私はガアーンと頭を殴られた気がして、呆然ぼうぜんとしてしまった。
父の出郷 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
ふきみに来たおばあさんは、寒竹かんちくやぶの中に、小犬を埋めたしるしの石を見て呆然ぼうぜんとしてしまったのだった。
彼女の身体は呆然ぼうぜんと石像のように立ち停り、風に吹かれた衣のように円木の壁にしなだれかかると、再び抜き捨てられた白鷺の尾羽根の上へどっと倒れた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
呆然ぼうぜんとして立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手がかたくなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、ゆかの上に倒れた。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
予は、驚愕きょうがく呆然ぼうぜんとして、最初に悲鳴を聞いた時にまっすぐに立ち上った姿勢から身を動かす力もなかった。
が、柳吉は「お前は家にりイな。いま一緒に行ったら都合ぐつが悪い」蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然ぼうぜんとしたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。
夫婦善哉 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
つまり、一瞬のあいだに、彼女は恐ろしい変調をきたして、アリョーシャを呆然ぼうぜんたらしめたのであった。
復一はむしろ呆然ぼうぜんとしてしまった。結局、生れながらに自分等のコースより上空を軽々と行く女だ。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私の昂奮は、憂鬱ゆううつな・残忍なものであり、他の人々のは、呆然ぼうぜんたる、或いは、憤激せるそれである。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
ただ一人、老哲学者の博士だけが、突然的の珍事に対して、手の付けようもなく呆然ぼうぜんと眺めていた。ウォーソン夫人の充血した眼は、じっと床の上の猫を見つめていた。
ウォーソン夫人の黒猫 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
これは、金剛山の偉大と繊細と広さとに接して、誰も適当な形容の言葉を発見し得なかったためであろうけれど、我らも一歩山へ足を踏み入れて呆然ぼうぜんたるばかりであった。
淡紫裳 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
ソシテ地図ヲ調ベルヨウニ詳細ニ彼女ヲ調べ始メタ。僕ハマズソノ一点ノ汚レモナイ素晴ラシイ裸身ヲ眼ノ前ニシタ※ニシバラクハ全ク度ヲ失ッテ呆然ぼうぜんトサセラレテイタ。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
さりとて未だ遂げざる大望の計画を人に向って話さば人は呆然ぼうぜんとしてその大なるに驚くにあらざれば輾然てんぜんとしてその狂に近きを笑わん。鴻鵠こうこくの志は燕雀えんじゃくの知る所にあらず。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
何という図太さだ! 何という「働く者」の図太さだ‼ 黄色い朝暾あさひのなかに音をたてて崩れてゆく足許あしもと霜柱しもばしらをみつめながら、鷲尾は呆然ぼうぜんとたちすくんでしまった。——
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
「ヘッ! ばかな! なんのこった!」裕佐は呆然ぼうぜんとなりながらも吐き出すように怒鳴った。「いったいどこから、いつ、だれがそんなことをいうのをお前聞いたんだ!」
呆然ぼうぜんとしている貫兵衛を促し、か弱いながら、一番気の確かなお蔦を手伝わせて、卯八一人の大働きで、水船から引上げた人間は四人、船頭の三吉と、野幇間のだいこの巴屋七平は
道具屋輩をして呆然ぼうぜんたらしめるようなより以上な巧言令色はお茶人気質かたぎの旦那筋にこそあって、本当の商売人という凄腕すごうでは果たしていずれであろうかが分明しない現実もある。
現代茶人批判 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
まるで、人形のような端正たんせいさと、牡鹿めじかのような溌刺はつらつさで、現実世界にこんな造り物のような、あでやかに綺麗きれいな女のひとも住むものかと、ぼくは呆然ぼうぜん、口をあけて見ていました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
翌年先生の訃報ふほうを私はスイスのチューリッヒで受けとったのであったが、そのとき私はそこの山腹の下宿の高い窓から、呆然ぼうぜんとして町の向こうの青い湖水の面を見おろしながら
左千夫先生への追憶 (新字新仮名) / 石原純(著)
千吉の鼻いきにフサエは呆然ぼうぜんとして物もいえなかった。かやが釜床の方から回ってきて
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
「へえ、気狂いになった!」私は、しばらく呆然ぼうぜんとして対手あいての顔をじっと見つめていた。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
一語一語を叩くように述べる欽二を、お松は只呆然ぼうぜんと胸に十字を切った儘聞いていた。
反逆 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
その温顔に神へのような深い感謝を私にあびせる老いたる母を見出して呆然ぼうぜんとしていた。
(新字新仮名) / 坂口安吾(著)
児太郎は、身うごきもせず、そう大胆に言い退ける弥吉の顔をむしろ呆然ぼうぜんとながめた。その口惜しさは一どきに頭を混乱させ逆上させた。はんたいに気持ちは落ちつき返っていた。
お小姓児太郎 (新字新仮名) / 室生犀星(著)