いささか)” の例文
少年の間、彼は全くそういう窒息的な環境に馴らされ、いささかの反撥も苦悩もなく過し、十六歳の年まで読書さえ母の監視つきであった。
元義は終始万葉調を学ばんとしたるがためにその格調の高古こうこにしていささかの俗気なきと共にその趣向は平淡にして変化に乏しきの感あり。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
けんの余の空間を辷って巻き附くその全く目にも留らぬ廻転と移動とを以てして、いささかの裂けも破けも、傷つきもひるがえりもしないことだ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
雪面は鉋をかけたように滑かでいささかの凹凸なく、晴空に悠然と煙を吐いているさまは、全く天外に白磁の大香炉を据えたようである。
山と村 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
一首は、豊腴ほうゆにして荘潔、いささかの渋滞なくその歌調をまっとうして、日本古語の優秀な特色がくまなくこの一首に出ているとおもわれるほどである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安のますます大にして、念頭いささかの苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。
開化の殺人 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
醇化を遂げた神の住みかなる天上は、いささかの精霊臭をもまじへなかつた。そこには「死の島」の思想は印象を止めなかつた。
母は麻酔剤のためにいささかの苦痛もなく眠りつづけてはいるが、それは母という特殊の意味で親しい肉体を戦場としての生と死との最後の戦いであり
母の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)
もう好加減いいかげんに通りそうなもの、何を愚頭々々ぐずぐずしているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気はいささかも薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位。
いささかも昔の清新さを失わず、再読三読して感歎を新にするに反して、これは誠に皮肉な時の批判と言わざるを得ない。
涙香に還れ (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
われら一個の考えによれば今後はますます万民鼓腹こふくしていささかの不平もない理想的黄金世界からは遠ざかりゆくであろうが、これは別に理由のあることで
戦争と平和 (新字新仮名) / 丘浅次郎(著)
日露干戈かんくわを交へてまさに三えつ月、世上愛国の呼声は今ほとんど其最高潮に達したるべく見え候。吾人は彼等の赤誠に同ずるに於ていささかの考慮をも要せざる可く候。
渋民村より (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
そこに美姫と、美酒と、山海の珍味を並べて、友達を集めて昼夜兼行の豪遊をこころみたために、百万円は瞬く間に無くなって、いささかなからぬ借財さえ出来た。
夫人探索 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
見渡せば水勢蕩々、緑樹の間古城の姿、山の形、舷を打つ小波も昔ながらにいささかの異変はないがただ船中の様は昔に変る未見の船頭、懐かしい二人の友が見えぬ。
イエスキリストの友誼 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
そこで一時代の文學は多かれ少なかれ支配階級の階級的偏見に感染することはいささかの疑いもない。
唯物史観と文学 (旧字旧仮名) / 平林初之輔(著)
「うむ、いささか、怪しい節がある。築城術の心得があり、しかも火術にも達しているらしい」
天主閣の音 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
常に家にありてわずかに貯えた物を護るに戦々兢々きょうきょう断間たえまなく、いささかの影をも怖れ人を見れば泥棒と心得吠え立つるも、もとこの二十年は犬から譲り受けたのだから当然の辛労である。
忠直卿当国津守つのかみに移らせ給うて後は、いささかの荒々しきお振舞もなく安けく暮され申候。
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それをそうと信ぜさせられた時、その市井の女はいよいよいささか歪曲わいきょくをもゆるさぬ真相を示すのである。世間も、彼の母も、その母の地位も、すべて残るくまなく、彼の心眼に映って来る。
この文壇の人々と予とは、あるいは全く接触点をいでいる、あるいはいささかの触接点があるとしても、ただ行路の人が彼往き我来る間に、たちまち相顧みてまた忽ち相忘るるが如きに過ぎない。
鴎外漁史とは誰ぞ (新字新仮名) / 森鴎外(著)
近隣の家々は、よどんだ空気の中にもやに包まれてぼやけて居た。二三丁へだてた表の電車通りからもいささかの響も聞えて来なかった。ぼやけて底光りのする月光が地上のものを抑えなごめていた。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女のいわく、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。げて帰らんと思えどいささかすきもなしとのことなり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
案の定男は、相手の顔からいささかの好色的な影も逃すまじとの鋭い其の癖如才無い眼付きで、先生、十七八の素人は如何です?——と切り出して参りました。矢張り源氏屋だったのであります。
陳情書 (新字新仮名) / 西尾正(著)
潮引き波去るの後におよんで之を塵埃じんあい瓦礫がれき紛として八方に散乱するのみ。またいささかの益する所なきが如しといへどもこれによりてその学が世上の注意をくに至るあるは疑ふべからざるなり。
史論の流行 (新字旧仮名) / 津田左右吉(著)
四六時中しろくじちゅういささかの油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を儼守げんしゅすることである。
これにって人智じんちは、人間にんげん唯一ゆいいつ快楽かいらくいずみとなつている。しかるに我々われわれ自分じぶん周囲まわりに、いささか知識ちしきず、かずで、我々われわれはまるで快楽かいらくうばわれているようなものです。勿論もちろん我々われわれには書物しょもつがある。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
勿論いささかの油断を許さない、刻一刻と移動して止まない体重の中心を、微妙に調節するあらゆる筋肉のはたらきと、集注的な強い意識とを必要とする。
黒部川を遡る (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
ついでに頭の機能はたらきめて欲しいが、こればかりは如何どうする事も出来ず、千々ちぢに思乱れ種々さまざま思佗おもいわびて頭にいささかの隙も無いけれど、よしこれとてもちッとのの辛抱。
しかるに彼は特にわれらを召さずしてかへつてわれらの来らざるを怒りわれらは特に伺候せずしてかへつて彼の召を待つ。この間互にいささかの悪意あるに非ず。
従軍紀事 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
フロはあるし、こせこせした心配はないし、その上、この土曜日から小学校は正月休みでしずかだし、仕事は面白いし、私もやはりいささかの懸念もない有様です。
陰口かげぐちをいう者の人格の下劣げれつにして、いささか俸禄ほうろくのために心の独立を失い、口に言わんと欲することを言わず、はなはだしきは心に思わんと欲することさえも、まったく思わず
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
岡本綺堂氏の「半七捕物帳」その主人公の半七にいていささか私見を述べることにする。
半七雑感 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
鶴見はこのたまたまの会見にも、いささかの感情をも動かさずに、それきりに別れてきた。
著者の所謂いわゆる……屍体飜弄……が当夜の呉一郎に依って演ぜられたるものと認めていささかの不自然を感ぜざるのみならず、かえって右の事象に対する説明の簡単適切、疑うべからざるものあるを以てなり。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
そしてメーコン河の両岸に於ける大森林地帯に住んでいる土人は、今も太古の生活を続け、太古時代と殆どいささかも変らぬ土俗や信仰や言語を存している。
二、三の山名について (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
いよいよそうときまった。眼は静かに塞いで居る。顔は何となく沈んで居ていささかの活気もない。たしかにこれは死人の顔であろう。見せ物はこれでおやめにした。
ランプの影 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
かくの如く何もかも主人まかせで少しの意志いささかの自由をも有せないものがしもべである。無論今日ではこの種の奴隷はいない。がしかし少しはいる。ねむくても主人が手をてばはいといって立たねばならぬ。
イエスキリストの友誼 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
人は魚の如く其水の中を登って行くのであるが、清冷な水は岩面にいささかの汚泥をもとどめていないので、何処を蹈んでも更に滑る憂がない。約一時間半も登ると右から一つの沢が来る。
力なくさりながらいささかの不平もなく、不思議に慰安と満足とを得るのである。
釜沢行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)