絃歌げんか)” の例文
三人の通った座敷の隣に大一座おおいちざの客があるらしかった。しかし声高こえたかく語り合うこともなく、ましてや絃歌げんかの響などは起らなかった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
夜更けの大川はさすがに鎭まり返つて、最早絃歌げんかあかりもなく、夜半過ぎの初秋の風が、サラサラと川波を立ててをります。
さしも北里のるいをするたつみの不夜城も深い眠りに包まれて、絃歌げんかの声もやみ、夜霧とともに暗いしじまがしっとりとあたりをこめていた。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
われこの日始てこれを寺僧に聞得て愕然がくぜんたりき。ちなみにしるす南岳が四谷の旧居は荒木町絃歌げんかの地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。
礫川徜徉記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
ほうり出していた毛脛けずねをひっ込めたり、横にしていた体を起して、絃歌げんかようやく盛んならんとする頃おい、小女が来て
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
河岸かし小店こみせ百囀もゝさへづりより、ゆうにうづたか大籬おほまがき樓上ろうじやうまで、絃歌げんかこゑのさま/″\にるやうな面白おもしろさは大方おほかたひとおもひでゝわすれぬものおぼすもるべし。
たけくらべ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
そこからは落寞らくばくたる歓楽の絃歌げんかが聞こえ、干からびた寂しい笑い声がにぎやかにもれて来る。——それは普通オランダ屋敷と呼ばれている「出島の蘭館らんかん」である。
どこかの家から、絃歌げんかの声が水面を渡って、宇治川のお茶屋にでも、遊んでいるような気がする。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
こんな不潔な絃歌げんかちまたで、女に家をもたせたりして納まっている自分をくすぐったく思い、ひそかに反省することもあり、そんな時に限って、気紛きまぐれ半分宗教書をひもといたり
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
料理茶屋からは絃歌げんかの声も聞えて来て、冬とは思えないほど、あたりはうきうきと賑わっていた。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
先刻までかなり騒がしかった四隣あたり絃歌げんかも絶えて、どこか近く隅田川辺の工場の笛らしいのが響いて来る。思いなしか耳を澄ますと川面を渡る夜の帆船の音が聞えるようである。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
左側の水楼に坐して此方こっちを見る老人のあればきっと中風ちゅうぶうよとはよき見立てと竹村はやせば皆々笑う。新地しんち絃歌げんか聞えぬがうれしくて丸山台まで行けば小蒸汽こじょうきそう後より追越して行きぬ。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
水鳥はもう寝たのか、障子の硝子戸ガラスどを透してみると上野の森は深夜のようである。それに引代え廊下を歩く女中の足音は忙しくなり、二つ三つ隔てた座敷から絃歌げんかの音も聞え出した。
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
水を越して響いて来る絃歌げんかの音が清三の胸をそぞろに波だたせた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
さすがに絃歌げんかの聲は絶えて、不氣味な沈默が水の上を支配しましたが、それでも、時々は遠い鳴物や歌聲が、風に乘つてこの沈默を破るのです。
昼顔の葉も花も、白いほこりをかぶって、砂地の原には、日蔭もなかった。その向うに見える家々は夜に入ると港の男のごえ絃歌げんかの聞える一劃だった。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その大きな高い白帆のかげに折々眺望をさえぎられる深川ふかがわの岸辺には、思切って海の方へ突出つきだして建てた大新地おおしんち小新地こしんちの楼閣に早くもきらめめる燈火ともしびの光と湧起る絃歌げんかの声。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
さむらいたちが、ろくを金にかえてもらった時分には、黄金の洪水がこの廓にも流れこんで、その近くにある山のうえに、すばらしい劇場が立ったり、ふもとにお茶屋ができたりして、絃歌げんかの声が絶えなかった。
挿話 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
春宵しゅんしょう一刻あたい千金、ここばかりは時をがお絃歌げんかにさざめいている。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
ふとしては聞える絃歌げんかの類もみがきのかかったものが多かった。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
見物は橋の上一パイの人だかり、人數に不足はない上に、空には引つ切りなしに花火が咲いて、遠くの船からは、まだ絃歌げんかの聲が盛り上がつてゐるのです。
一昨日おととい、昨日、今日とつづいている城下の踊りは、夜半よなかにかけてもむいろなく、絃歌げんかと仮装の踊りの陣が、幾組もいく組も、いろどられた徳島の町々を渦にまいて流れていた。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それが絃歌げんかちまたでも少しもつかえないはずだと思われた。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
亥刻よつ過ぎになると、水の面もさすがに宵の賑はひはありませんが、それでも絃歌げんかの響や猪牙ちよきがせる水音が、人の氣をそゝるやうに斷續して聽えるのでした。
もうこの世界でも起きている青楼うちはないらしい。ばったりと絃歌げんかもやんでしまった。丑満うしみつの告げはさっき鳴ったように思う。一同が引揚げてからでもやや一とき余りは経つ……
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
百千の花燈かとうをとぼし、河北かほく一のお茶屋と評判な翠雲楼すいうんろうときては、とくに商売柄、その趣向もさまざまであり、花街の美嬌びきょう絃歌げんかをあげて、夜は空をがし、昼は昼で彩雲さいうんとどめるばかり……。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
使命をなかばにしてズタ斬りとなるか、無念の鬼となろうとしているのを、世間はよい絃歌げんかさわぎで、河岸を流す声色屋こわいろやの木のかしら、いろは茶屋の客でもあろうか、小憎いほどいいのど豊後節ぶんごぶし——。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
の燈籠は一時に消え、歌舞の絃歌げんかは、阿鼻あびきょうや悲鳴に変った。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
桑田くわた町屋まちやに変り、広野ひろの絃歌げんかともしびうつす堀となり、無数の橋や新しい道路は、小鳥の巣やさぎのねぐらを奪って、丘の肌は、みな生々なまなましい土層を露出し、削られたあとには、屋敷が建ち、門がならび
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)