得体えたい)” の例文
旧字:得體
犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体えたいの知れないひとりの人間だった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そうこたえながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体えたいの知れないこの美しい婦人の素性すじょうを探ろうとするように注意深い目をやった。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
人間は無論ですが、猿にしても蛇にしても、あるいは得体えたいの知れない猛獣にしても、この河を泳いでわたるのは大変でしょう。
麻畑の一夜 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
前にはこの得体えたいの知れぬものがひそんでいる。そこで直ちに私は自分の知らぬ危険よりはむしろ自分の知っている危険の方を取ることにした。
今どき螢出ほたるでのこんな茶碗なんか使ふのめや。物欲ものほしさうであかんわ。筋の通つたのがないのなら、得体えたいの知れんものでも使うたがええ。茶を
曠日 (新字旧仮名) / 佐佐木茂索(著)
それともまた、その裏の林のなかで山鳩やまばとでもいたのだろうか? ともかくも、その得体えたいの知れぬアクセントだけがみょうに私の耳にこびりついた。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
ところが次ぎの瞬間には、何も言うことがなくなり、それから今度は、『ちぇっ、まるで得体えたいの分らぬ男だ!』と言って引き退さがるより他はない。
指端ゆびさきの痛くなるほど力を入れてそれをはずし、雨戸へ手をかけたが、得体えたいの知れない怪物が戸の外に立っているような気がするので、こわごわ開けた。
黄灯 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そのお蕗と母の雪乃が、得体えたいの知れないくせ者に待たれて、一時に影をかくしたのである。かれの愕きは思いやられる。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その代りに、部屋の隅ずみには得体えたいの知れない器具がいろいろ積まれてあって、一方の隅には骸骨が立っていた。
僕は船長の命令をきかずに、下の寝台に飛び乗って、上の寝台に横たわっている得体えたいの知れない怪物をつかんだ。
が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体えたいの知れないほがらかな心もちが湧き上つて来るのを意識した。
蜜柑 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
その真中から親指を突き出したように鼻が一本あるだけでおまけにそこには鼻の穴がぼつんと一つしかついていないという何とも得体えたいの知れぬ怪物だった。
えぞおばけ列伝 (新字新仮名) / 作者不詳(著)
動き出したところで今度は蛇の目の傘ではなく、番傘で、そうして相合傘の主も、得体えたいの知れぬ河童かっぱのような男だから、多少うんざりしないわけにはゆかない。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
室子はそういう場合、得体えたいの知れぬ屈辱感で憂鬱になる。そして、自分に何か余計なものかもしくは足りないもののありそうな遺憾が間歇泉かんけつせんのように胸に吹き上がる。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
あれほど暴威をふるっていた得体えたいの知れない熱病が、あのお方がご城下へ現われてからは、またたく間に勢いをひそめて、病人はドシドシ本復する。新しい患者は出なくなる。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
何か得体えたいの知れぬ、不思議なものが、再び私の背に迫るような気がした。思わず振り返った。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
小野ノ連、詮索せんさくするように文麻呂の眼付、挙動をじろじろ眺めている。文麻呂は得体えたいの知れぬ興奮に、その眼は異様に輝き、なるほど、天空に向って浮游ふゆうしているかのようだ。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
窓の両側から申訳のために金巾かなきんだか麻だか得体えたいの分らない窓掛が左右に開かれている。その後に「シャッター」が下りていて、その一枚一枚のすき間から御天道様おてんとうさまが御光来である。
倫敦消息 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私の目の前には何か得体えたいの知れないものがあって、彼女をさえぎってしまった。
ついこの間なども、変な声でなんだか得体えたいのわからない唄を歌っていました。
いつ、どこから、だれがこの部屋に這入はいって来て、自分の留守にいるのだろう。そうした想像の謎の中で、得体えたいのわからぬ一つの予感が、疑いを入れない確実さで、益〻ますますはっきりと感じられた。
ウォーソン夫人の黒猫 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
急に得体えたいの知れぬ力が自分に迫つて来たのだが、それを防がうとする自分の力が迫つて来る力に較べて弱すぎ、均衡バランスが破れたといふ感じがたまらなく怖くなり、何とかして均衡を保たうとして
六白金星 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
そういった得体えたいの知れない不安に襲われて思わず身ぶるいをしました。
ハムレット (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
何だかこう得体えたいの知れないものが、眼の前に現われてきたのだった。
幻の彼方 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
得体えたいの知れぬ悲願を血につなごうとしているようで、痛々しかった。
日本文化私観 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
得体えたいの知れぬ鬼影おにかげを映しだす怪物、また或るときは、変な衣裳いしょうを着て闊歩かっぽする怪物、その怪物を、うまく隧道トンネルの中にじこめたつもりであった警官隊でありましたが、隧道の上に、なんとしたことか
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
熊蔵は彼を香具師やしだろうと云った。得体えたいのわからない人間の首を持ちあるいて、見世物の種にでもするのだろうと解釈した。
半七捕物帳:04 湯屋の二階 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な恰好かっこうをした氷倉こおりぐらだの、その裏の方でした得体えたいの知れないさけび声だのを思い浮べた。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
得体えたいのわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞくぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
そのほかにまだなんとも得体えたいの知れない妙な物の出て来る小説がある。妙な物と云ふのは、声も姿もない、その癖触覚しよくかくには触れると云ふ、要するにまあ妙な物です。
近頃の幽霊 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
実際、得体えたいの知れない敵である。この敵の正体、おそらく誰にもわかっていないのではあるまいか。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
得体えたいの知れない火事装束の一団が乗りこんできて、これには左膳、源十郎もしばし栄三郎方と力を合わせて当たってみたが、その間に泰軒は屋敷をのがれ出てしまった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
んでるに違いないんだ。殊にこの頃の僕は、家の者には得体えたいの判らない人間になっていたから
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
これにはさすがのオースチン老師もすっかり胆をつぶしたが聡明無双の彼だけに早くも彼らが得体えたいの知れない東洋流の妖術を使って誘拐かどわかしたに違いないと、よいところへ眼星めぼしを付け
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
何しろ相手は、得体えたいの知れない火星人なのだ。
大宇宙遠征隊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
こうした苦しみがいつまでも続いたら、自分は遅かれはやかれ得体えたいの知れない幽霊のために責め殺されてしまうかも知れない。
半七捕物帳:01 お文の魂 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
この石にみこんだ麝香じやかうか何かの匂のやうに得体えたいの知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。
と、思うと得体えたいのわからないその姿は、そのまわりの物がだんだん明らかになって行く間に、たった一つだけまっ黒なままでいつまでも輪郭を見せないようだった。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
と伊那丸はさらにとこにちかづいて指さした。それまではほかの者も、なにか、得体えたいの知れない、ただいわはだすみをつけてそれを転写てんしゃした碑文ひぶんかなにかと思っていた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
家つきの調度の品々までなかなかにった住居すまいではあるが、ながらく無人、狐狸こりの荒らすにまかせてあったうえに、いまの住人というのがまた得体えたいの知れない男ばかりの寄合い世帯なので
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
正月早々から屋敷の屋根に得体えたいの知れない人間の死体が降って来たなどということは、第一に不吉でもあり、世間に対して外聞の好いことでもない。
半七捕物帳:10 広重と河獺 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
自分でも得体えたいの知れぬ病状をもてあまして、蒲団ふとんへ蒼白な顔をふせましたが、お粂はその息づまり方を察しもなく、押し退けられるほど両の腕を、男のやせた肩へからんで
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼どらでも鳴らすやうな、得体えたいの知れない音楽の声が、かすかに伝はり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きつと聞える声なのです。
アグニの神 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
つづいて嘶くのか、吠えるのか、唸るのか、得体えたいのわからない一種の叫びが闇をゆするように高くひびいた。
馬妖記 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
いちどの湯浴ゆあみも水拭きもしたことなく、皮膚はあかとこの冬中の寒気で松かさみたいになっている。やや暖かになって来たと思うと、体じゅう得体えたいの知れない腫物できものができてきた。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうして、今まで彼につきまとっていた得体えたいの知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
おそらくはてんであろうと判断されたが、それほどの大きい貂は滅多めったにあるものではないというので、所詮は得体えたいのわからない一種の怪獣と見なされてしまった。
半七捕物帳:43 柳原堤の女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
正覚坊しょうがくぼうの卵みたいな、三寸玉から五寸玉ぐらいまでの花火の外殻からが、まだ雁皮貼がんぴばりの生乾なまびになって幾つも蔭干しになっているし、にかわを溶いた摺鉢すりばちだの、得体えたいの知れない液体を入れた壺だの
銀河まつり (新字新仮名) / 吉川英治(著)
結局、おじさんの菩提寺の僧を頼んで、表向きは得体えたいの知れないお文の魂のための追善供養を営むということにした。お春は医師の療治をうけて夜きをやめた。
半七捕物帳:01 お文の魂 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)