苦々にがにが)” の例文
しかしもう彼女は、ランジェー家の一週一回の晩餐ばんさんにも来なくなった。ジャックリーヌは腹をたてて、苦々にがにがしく小言を言いに行った。
「お父様、」と彼女は言った、「こんな服装は私にどうでしょう?」ジャン・ヴァルジャンは苦々にがにがしいねたましいような声で答えた。
さも苦々にがにがしそうに尻目に見返したが、此方こなたは一向気がつかない様子で、さされる盃を立てつづけに二杯干して若い記者に返しながら
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「ははあさようにお見えになりますかな」融川はどことなく苦々にがにがしく、「しかしこの作は融川にとりまして上作のつもりにござります」
北斎と幽霊 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分ののどから老人のようにしわがれたうつろな声の放たれるのを苦々にがにがしく聞いた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
「五十に近づいて夜の空を見ることは……。」と矢島さんは苦々にがにがしく思った。然しそれが何であったかは彼自らにも分らなかった。
過渡人 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
久世氏のいい廻しは、たいへんに上手でしたが、やはり、よけいなことをいいに来たもんだという、苦々にがにがしい調子が含まれていました。
キャラコさん:08 月光曲 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
兄だけはおかしいのだか、苦々にがにがしいのだか変な顔をしていた。彼の心にはすべてこう云う物語が厳粛な人生問題として映るらしかった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
しかし、こう話を向けられても、人々は苦々にがにがと口をかんしたきりだった。——とはいえ、それほどな張清でも、そらける鬼神ではない。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして、それらの書が旅館、待合、官庁、警察、市町村長等の家屋に遺されていて、わたしは苦々にがにがしく感じて来たものである。
串戯じょうだんじゃない。」と余りその見透みえすいた世辞の苦々にがにがしさに、織次は我知らず打棄うっちゃるように言った。とそのことばが激しかったか
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
自分の心と、言葉と、その表情である処の抑揚とがお互に無関係である事を感じた時の嫌さというものは、全く苦々にがにがしい気のするものである。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
兄は苦々にがにがしそうに言った。僕も気の毒に思った。殊にきのうその場所で出逢った人だけに、その感じがいっそう深かった。
こま犬 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
お銀はひとしきり苦々にがにがしていた腹の痛みも薄らいで来ると、自分にってランプをともしたり、膳拵えをしたりした。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
甚太夫ははじめ苦々にがにがしげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易よういけ引く色を示さなかった。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そんな楢雄を父親の圭介はいぢらしいと思ふ前に、苦々にがにがしい感じがイライラと奥歯に来て、ギリギリと鳴つた。
六白金星 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
男は一度あかくなったあとで苦々にがにがしくこういって、ごろんと仰向けに横になった。そして女の心底を逆に読もうとするようにけわしく女の顔をにらみ見た。
昔の士族気質から唯一の登龍門と信ずる官吏となるのを嫌って、ろくでもない小説三昧にふけるは昔者むかしものの両親の目から見れば苦々にがにがしくて黙っていられなかった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
かえって人間の至情を害して世の交際を苦々にがにがしくするがごときは、名を買わんとして実を失うものと言うべし。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
お吉のもてなしを受けてその温かい酒の盃が唇に触れた時の心持は、隠居の時の苦々にがにがしいのとは違います。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
五百はこれを見て苦々にがにがしくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからといって、のちわずらいのこすような事はあるまいと気に掛けずにいた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少のにがみを伴なわない事はまれであるのに、これらの家畜の思い出にはいささかも苦々にがにがしさのあと味がない。
備忘録 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
その流言に対して会津あいづ方からでも出たものか、八幡はちまんの行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々にがにがしいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
用人川村左馬太は、年配の者らしく、主家の総領の無分別さが、苦々にがにがしくてたまらない様子です。
「そんなことがあり得るだろうかってんですか!」とドファルジュは苦々にがにがしく言い返した。
アイリスは昨夜の一時的亢奮の冒険を苦々にがにがしく思って居た。彼女の性に対する好奇心が、あんなにもたわいなくワルトンに乗ぜられた事が、じっとして居られない程口惜しかった。
決闘場 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
と、苦々にがにがしげな顔を一層硬ばらせている法皇の前で、恐るる色もなく述べたてた。
すべてこれ等の苦々にがにがしい情は、これまで勤勉にして信用厚き小学教員、大河今蔵の心には起ったことはないので、ああ金銭かねが欲しいなアと思わず口に出して、じっと暗い森の奥を見つめた。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々にがにがしく姑の思える様子は、怜悧さとき浪子の目をのがれず。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
彼はずいぶん苦々にがにがしい顔をして私を見たが、何とも言わなかった。
部屋のあるじは苦々にがにがしげにいった。渋い、とおった声だ。
市川九女八 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
明智はフィガロの紫色の煙の中で、苦々にがにがしげに呟いた。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
紳士は苦々にがにがしげに云った。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ただ一つの真理をしかいれないそれらの一途いちずな魂にとっては、政治上の処置や主要人物らの妥協は、苦々にがにがしい幻滅の種となるのだった。
田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」のもと苦々にがにがしい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
こうお品にいているところへ、さっきからあなたにいて、待ちくたびれていた旅川周馬と天堂一角が、苦々にがにがしげに近づいてきた。そして
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ジルノルマン老人はマリユスのことを考えると、かわいくなったり苦々にがにがしくなったりしたが、普通は苦々しさの方が強かった。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々にがにがしい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込ひっこんでいたのです」
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そのおびえたような顔色を苦々にがにがしそうに睨みながら、弥兵衛は枯枝の一つを把って先きに立つと、ほかの者共もよんどころなしに付いて行った。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
間もなくはいって来た藪原長者は、武士が冠り物を脱がないのを苦々にがにがしそうに睨んだが、それでも下手しもての座に着いた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それが私を苦々にがにがしい気分になす。そのうちにまた昼食だ。朝が遅いので、私達は昼に麺麭と牛乳とを取っている。
理想の女 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々にがにがしく聞いていた。と同時にまた、昔の放埓ほうらつの記憶を、思い出すともなく思い出した。
或日の大石内蔵助 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
裕佐は青年の同情ある慰めごとにかえって立腹したかのように、顔を火のごとくほてらせて苦々にがにがしくこういった。
「女が悪いんだ。女の方から持掛もちかけたんだ、」とU氏は渋面じゅうめんを作って苦々にがにがしい微笑を唇辺くちもとに寄せつつ
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
苦々にがにがしく言い放ったけれども、あちらを向いていた女は向き直ろうともしません。女の書いている巻紙だけが、するすると竜之助の見ている方へ流れて来るのです。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
かねがね山谷はお君に同情めいた態度を見せ、度を過ぎていると豹一は苦々にがにがしかったが、さすがに今はくれぐれも頼みますと頭を下げた。便所でボロボロ涙をこぼした。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つけでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々にがにがしい有様と云うものは実にたまらないけであった。私の西航記中の一節に
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
そうしてはなはだ苦々にがにがしくも、おこがましくも感ずるのであるが、それをあえて修飾することなくそのままに投げ出して一つの「実験ノート」として読者の俎上そじょうに供する次第である。
科学と文学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
大きな、ハックサメをすると煙草たばこを落した。おでここッつりで小児こどもは泣き出す、負けた方は笑い出す、よだれと何んかと一緒でござろう。鼻をつまんだ禅門ぜんもん苦々にがにがしき顔色がんしょくで、指を持余もてあました、塩梅あんばいな。
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
この人は支庁主任の処置を苦々にがにがしく思うと言い、木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわることを黙って見ていられるはずもないが、自分一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)