憐愍れんびん)” の例文
たまらない憐愍れんびんがわいて彼はまた直義の枕元に坐り直した。弟は自分のようにずるくなかった。なお置文をたましいとして持っていた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ではしや……」司令官は、何におどろいたのか、その場に、直立不動の姿勢をとり、湯河原中佐の憐愍れんびんを求めるかのように見えた。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
男「スリルだね。閨房の蜜語がたちまちにして恐怖となる。君はその時、あの男の目の中に、深い憐愍れんびんじょうを読みとったのだったね」
断崖 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
繿縷ぼろをまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍れんびんの色を、豪奢ごうしゃ貂裘ちょうきゅうをまとうた右校王うこうおう李陵りりょうはなによりも恐れた。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
特筆に値する記事ではないが次手ついでだから紹介したに過ぎない。ただ生類憐愍れんびんのやかましい元禄時代に、死鶴の骨を埋葬したことは首肯される。
マル及ムレについて (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
野垂死をするように——その光った眼は物乞いの憐愍れんびんさのような微笑さえして——その死体は、白痴のように、口を開いて——
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
然も、それを自身の金銭で買ひ得ず、同居人から僅かに一二滴を貰ふと云ふのは充分悲惨で、憐愍れんびんす可き事ではあるまいか。
アリア人の孤独 (新字旧仮名) / 松永延造(著)
金に目のくらんだ兄に引きられて、絶望のふちへ沈められて行った、お柳に対する憐愍れんびんの情が、やがて胸にみ拡がって来た。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そうして最後の『明暗』に至って憤怒はほとんど憐愍れんびんに近づき、同情はほとんど全人間に平等に行きわたろうとしている。
夏目先生の追憶 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
それだけが、ご憐愍れんびんによって、没収の処置から除外され、もとの藩主であった伊達邦夷個人の所有とみとめられたものだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
光一の胸に憐愍れんびんの情が一ぱいになった。かれは自分の解説があやまっていないかをたしかめるためにひかせきへと急いだ。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
が、又考えようによっては、殺しはせぬが憐愍れんびんのために其妻女の美しい同情に惹かされてツイ涙と共にあのような事を口走ったものでもあるのか。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
夫のかたきを討つ……この時代に於いては大いに憐愍れんびんの御沙汰を受くべき性質のものであった。事情によっては或いは無罪になるかも知れなかった。
半七捕物帳:31 張子の虎 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
自分のへやにはいってきた娘に対しても、嫌悪けんお憐愍れんびんとの感を通して、どこかほかで会ったことがあるというぼんやりした覚えがあるに過ぎなかった。
「では格別の憐愍れんびんにより、貴様きさまたちの命はゆるしてやる。その代りに鬼が島の宝物たからものは一つも残らず献上けんじょうするのだぞ。」
桃太郎 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や憐愍れんびんから生じたという風に云われることを何よりもいといそんな観察をする者があると心外千万であるとした。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
今みんなから包囲攻撃を受け始めたばかりの新参者に対するような憐愍れんびんと、同時にある勝利感を含んだ寛容の微笑を浮かべながら、彼を見つめていた。
動物にたいする憐愍れんびんの欠乏は勿論、仕えの女たちへのしばしばの乱行もそうなら、わんをもって酒食らうことも殆ど町方破落戸ごろつきとえらぶところがなかった。
野に臥す者 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
土岐頼兼が示したところの、憐愍れんびんをこめた死の前の顔と、死んで山本時綱の太刀に、貫かれた首級それであった。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
四隻の細長い独木舟オックダアに分乗して、飛沫ひまつを散らして先後を争った凄まじさは、私としては見ていて壮快を感ずるよりも、かえって憐愍れんびんの情にたれたのであった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
老臣たちのあいだから憐愍れんびんの沙汰を願いでるかと思ったが、みんな一言もなく直孝の裁きに服した。
青竹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ひとり哀れを催すのは左門のみの特殊な襞にまつはりついた感慨であつて、その正体は実在しないものだつた。然し左門の文子によせる憐愍れんびんはせつないまでに激しかつた。
「ジョヴァンニ。憐れむべきジョヴァンニ」と、教授は冷静な憐愍れんびんの表情を浮かべながら答えた。「僕はこの可憐かれんな娘のことについて、君よりも、ずっとよく知っている。 ...
牛のような青年は、巨獣が小さいきずにも悩みやすいように、常に彼もどろんとした憂鬱ゆううつに陥っている。それでむす子は、何か憐愍れんびんのような魅力をこの男に感ずるらしい——。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
唐の太宗が貞観六年みずから罪人を訊問し、罪死に当る大辟囚だいへきしゅうらを憐愍れんびんして、翌年の秋刑を行う時
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
これは尊崇かざる聖者の肖像ではなくして、浮世になみいる妄執に満ちた憐愍れんびんすべき餓鬼の相貌である。賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貌である。
美の日本的源泉 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
が、しかし、あれほどまでに親しかったフロールでさえ、親しいと考えていたのは私の自惚うぬぼれで、フロールはただ憐愍れんびんと同情とを一人の不具者かたわものに恵んでいたにすぎなかったのだ。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
これは運命への抵抗とはげしい悲しみとの叫びである。憐愍れんびんに胸をつらぬかれることなしには、人はこの叫びを聞き得ない。当時彼は自ら命を絶とうとする危険の淵に臨んでいた。
云ひかへれば人間の弱点に対しての或る憐愍れんびんと同情とを表した判事の自然な態度を見る事の出来た私は、此の弁護士が被告の為めに、同情すべきその生活状態や周囲の事情を説きながら
ある女の裁判 (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
友の無情をえんじ、またそのあわれみを乞うのである。今までは友の攻撃をことごとく撃退したる剛毅ごうきのヨブもついに彼らの同情、憐愍れんびん、推察を乞うに至る。その心情まことに同情に値するではないか。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきときわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍れんびんを垂れてくれた。
走れメロス (新字新仮名) / 太宰治(著)
その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残している。これは一目見て、憐愍れんびんよりもまず、身の毛のよだつ姿であった。が、その女達は、私の立留ったのを見ると
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
ふと、彼は高重の沈黙の原因を、自分に向けた高重の憐愍れんびんだと解釈した。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
憐愍れんびんから愛着、愛着から同化、ついに自他の区別を忘却するまでに至るのは、一つは、この獣と関聯して、どうしても無二の愛友であったムク犬のことを、思い出さずにはいられないからです。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
若し強ひて厳格な態度でも装はうとするや最後、其結果は唯対手をして一種の滑稽と軽量な憐愍れんびんの情とを起させる丈だ。然し当人は無論一切御存じなし、破鐘の欠伸する様な訥弁とつべんは一歩を進めた。
雲は天才である (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
彼らの至高なる精神的態度は、愛情よりも寧ろ多くの憐愍れんびんを示す。彼らは汝に語るに親切聡明なる事物を以てし、汝はその意を解し、その語を記憶す。されど彼らの声は汝らのうちに生きて存留せず。
武士道の山 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
この私の紳士性は、彼女の憐愍れんびんを買うに充分だったのだ。
踊る地平線:10 長靴の春 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
そして、ボーイ長の負傷に同情と憐愍れんびんの言葉を贈った。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
そしてその男は富者を憐愍れんびんした。
貧富幸不幸 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
彭義は大いに後悔して、獄中から悔悟かいごの書を孔明へ送り、どうか助けてくれと、彼の憐愍れんびんに訴えた。玄徳もその陳情を見て
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その苦しみを想像すると、恨みに燃える毛利氏の心中にも、いささか憐愍れんびんの情がわかないでもなかった。だが、いまさらどうなるものでもない。
影男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍れんびんの情も、少しずつ忿怒ふんぬの消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
あるものは嘲弄ちょうろうするように、あるものは憐愍れんびんの面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
其の本然の女らしい性質にかえり、かつて自分が害を加えた醜い夫の容貌に心からなる同情と憐愍れんびんとを注ぎながら、貞淑な妻として、また慈愛深き母として
仕方なしに私は立ち上つて、其の場を去らうと試みた。けれど、それを見て取るとウラスマル君の顔面には可成り烈しい困惑と憐愍れんびんに似た表情とが起つた。
アリア人の孤独 (新字旧仮名) / 松永延造(著)
あたかも彼は、憐愍れんびんの情に満ちてる目でその壁を貫き、その不幸な人々をあたためんとしてるかのようだった。
実際、誰しもこういう場合、それこそ真剣な憐愍れんびんや同情を持っているにもかかわらず、このような感情が忍び込むのを、どうしてものがれ得ないものである。
憐愍れんびんをあたえるような態度で土地選定を慫慂しょうようした馬上の男は、ともに天をいただかずとした薩派さっぱ系の人物であったことだ。しかしそれも、時と所が変っていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
そこへ気が付けば馬翁に対する憐愍れんびんも十分、自分の繋縛の一つでないことはない。かくて慧鶴は思い切って馬翁に暇を告げ桜の頃檜木村をあとにして、雲水の旅に出かけた。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
かみにも特別の憐愍れんびんを加えられて、単にきびしく叱り置くというだけで家主に引き渡された。
半七捕物帳:20 向島の寮 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)