長閑のど)” の例文
そうして健康の時にはとても望めない長閑のどかな春がその間からいて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
他日、近く旗を京都にのぼせ、諸州の群雄どもをしずめ、かみ御宸襟ごしんきんをやすめ奉った上には、心ゆくまで、長閑のどけき空へ鷹も心も放ちとうぞんずる
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一種云いようのない陰鬱いんうつな気分を覚えた、そうして御台の無心らしい微笑ほゝえみや長閑のどかな笑いごえの底にも、じっと感情を押し殺している跡が見え、心の苦しみが推察されたと云っている。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そのしわだらけなひたいに、顱巻はちまきゆるくしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色がんしょくで、長閑のどかにくわを使う様子が——あのまたその下のやわらかな土に、しっとりと汗ばみそうな
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
長閑のどかにこの世を送っている者がうらやましくもなり、又実に憎々しくもなる。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
あなたふと、わが大君、しまらくも長閑のどにいまして、見霽みはるかしませ。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
跡には春の夜の朧月、殘り惜げに欄干おばしまほとり蛉跰さすらふも長閑のどけしや。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
いそがはしくわれを育ててわが母や長閑のどに桜も見できませしか
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
摩耶まやちち長閑のどにふふますいとけなき仏の息もききぬべき日か
雀の卵 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
地に著かぬ中ぞ長閑のどけき舞ふ木葉
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
みじかしとくらこゝろ如何いかばかり長閑のどけかるらんころ落花らくくわの三ぐわつじんちればぞさそあさあらしにには吹雪ふゞきのしろたへ流石さすがそでさむからでてふうらの麗朗うら/\とせしあまあがり露椽先ぬれゑんさき飼猫かひねこのたまかるきて首玉くびたましぼばなゆるものは侍女こしもとのお八重やへとてとし優子ゆうこに一おとれどおとらずけぬ愛敬あいけう片靨かたゑくぼれゆゑする目元めもとのしほの莞爾につこりとして
五月雨 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
しかし、舟と人とは、うらうらと、さも長閑のどけきみちのように、雲の影のうつっている静かな水面を漕ぎすすんでいた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
爺さんは貝の行末ゆくえを考うる暇さえなく、ただむなしき殻を陽炎かげろうの上へほうり出す。れのざるにはささうべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑のどかと見える。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
四辺あたり長閑のどかさ。しかししずかな事は——昼飯をすませてから——買ものに出た時とは反対の方に——そぞろ歩行あるきでぶらりと出て、温泉いでゆくるわを一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。
みさごの鮨 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
父は父母は母とて長閑のどあらし足さすりをらす旅の春日を
海阪 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
それがみんなそぞろ歩きでもするように、長閑のどかに履物はきものの音を響かして行った。空には星の光がにぶかった。あたかも眠たい眼をしばたたいているような鈍さであった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
この日いらい、どこやらに腹のきまったとも見える姿が彼の一両日を長閑のどけくしていた。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
玉蘭はくれんの下照る土に歩めるは野の小綬鶏か長閑のどになり来し
黒檜 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
空地の牛が、晩秋の長閑のどかな陽なたに寝そべって、悠長な声を曳いて、いていた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
降らんとして降りそこねた空の奥からかすかな春の光りが、淡き雲にさえぎられながら一面に照り渡る。長閑のどかさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶うっとうしい。どこやらで琴のがする。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
浜宮の御宮の松に掛け干して唐藷からいもがらも長閑のどに枯れたり
海阪 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
どの顔もどの顔も、わが世の春を謳歌おうかした藤原氏の一頃ひところのように、長閑のどけく見えた。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
さはれなほ吹き鳴らし吹き鳴らし長閑のどに消えつつ
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
正月は正月の真似びもしたり、この頃の麦踏み唄にも、近年にない百姓衆の長閑のどかな励みが見られるなど、みなお蔭によるものと、もったいのう存じて、ただ朝夕の蔭膳へのみ、一日も早くと
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けれど、張飛に案内されて、南苑なんえんの客館に通ってみると、まったく世の風雲も知らぬげな長閑のどけさで、浪人を愛するよりは、むしろ風流を愛すことのはなはだしい気持の逸人ではないかと思われた。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)