東叡山とうえいざん)” の例文
上野は東叡山とうえいざん三十六坊といわれている。ふかい木々と夜霧のあなたに、中堂の廻廊の灯や、文珠堂もんじゅどうおばしまなどがかすかに見える。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
本山とす出羽國ではのくに羽黒山派はぐろさんは天台宗てんだいしうにて東叡山とうえいざん品親王ぽんしんわうを以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは諸山しよざん修行しゆぎやう修學しゆがくの名にて難行苦行なんぎやうくぎやうをして野に伏し山に宿しゆく戒行かいぎやう
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
その中で、車坂の酒屋、東叡山とうえいざんの御用を勤める、池田屋八郎兵衞の總領、二十三になつたばかりの眞太郎が、フラフラと思ひついたのも無理のないことでした。
なまじっか、律儀に、ご尊名などを聞かなければ、雲州侯うんしゅうこうも手玉に取った、御数寄屋おすきや坊主の宗俊が、蔭間かげま茶屋通いの、上野東叡山とうえいざん生臭なまぐさか、そんなことに頓着なく
青バスの女 (新字新仮名) / 辰野九紫(著)
昨日は将軍家が江戸東叡山とうえいざんの寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸みとの方へ落ちて行かれたとか
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「公卿をつかわして諸侯を遊説ゆうぜいせしむべし」、曰く、「東叡山とうえいざん法親王を脱して仙台、米沢藩に託すべし」、曰く、「皇太子、親王、法親王はよろしく正議大諸侯に託すべし」
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
二月二十日は世に大御所と称せられた徳川家斉いえなり霊柩れいきゅう東叡山とうえいざんに葬送せられた当日である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじ山裾やますそに、周囲しゅういいけることは、開府以来かいふいらい江戸えどがもつほこりの一つであったが、わけてもかりおとずれをつまでの、はすはな池面いけおも初秋しょしゅう風情ふぜい
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
昨日きのふあまへてふてもらひしくろぬりの駒下駄こまげた、よしやたゝみまが南部なんぶにもせよ、くらぶるものなきときうれしくて立出たちいでぬ、さても東叡山とうえいざんはるぐわつくも見紛みまがはな今日けふ明日あすばかりの十七日りければ
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
そのかたは上野東叡山とうえいざん派の坊様で、六十位の老僧、駒込こまごめ世尊院せそんいんの住職で、また芝の神明しんめいさまの別当を兼ねておられ、なかなか地位もある方であったが、この方が毎度師匠のもとへ物を頼みに見えられます。
東叡山とうえいざん寛永寺というただいまの勅号は、このときより少しくあとの慶安年中に賜わったものですから、当時は開山天海僧正の名をとって、俗に天海寺と呼びならしていた徳川由緒ゆいしょのその名刹めいさつ目ざして
出が寛永寺の縁故の所だし、東寔と東叡山とうえいざんとも、こじつければこじつけられない気もしないではないし——などと根気のない私はそろそろさじを投げかけていた。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
車坂の四方屋は東叡山とうえいざん數十ヶ寺の御用を承つて、袈裟けさ法衣は扱ひませんが、かなり大きな呉服屋でした。
慶喜その人は江戸東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじにはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
仕損しそんじなば御二人の御命にもかゝはるならんとおひつ氣をもむをりしもゴウゴウと耳元近く聞ゆるは東叡山とうえいざん寅刻なゝつかねコリヤ斯うして居られぬと物にすがりて立上り蹌踉ひよろめくあし
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
已に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山とうえいざん大伽藍だいがらん灰燼かいじんとなしてしまった。
霊廟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
車坂の四方屋は東叡山とうえいざん数十ヶ寺の御用を承って、袈裟けさ法衣は扱いませんが、かなり大きな呉服屋でした。
町方の女房娘、若衆芸妓の花見小袖、目かつらの道化、渋い若旦那、十徳の老人、武家は編笠、町奴は落し差し、猫も杓子しゃくしも、ぞろぞろと東叡山とうえいざん上野の丘へ登って行く。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
東叡山とうえいざん南の草堂に隠退して「時事懶聞非我分。」〔時事ハ聞クニものうぶんニ非ズ〕といい、また「門外紛紛属少年。」〔門外ノ紛紛タルハ少年ニ属ス〕というが如き歎声を漏すに過ぎなかった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そこは東叡山とうえいざんの北裏にあたる根岸村——土地に住む雅人がじんが呼んであけぼのの里となす閑静な所でした。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
倅をけしかけて私の手文庫から、東叡山とうえいざん御造営の大事な見積り書を盗み出させ、私と張り合っている深川の材木屋に売らせたのも、今から考えるとどうも梅吉の細工らしい。
もつとも駒吉は三年前まで上野山下に大きな店を持つて、東叡山とうえいざんの御出入りまで許された名譽の仕立屋でしたが、ツイ近所の伊勢屋幸右衞門に押入つた大泥棒熊井熊五郎の召捕に
上野東叡山とうえいざんの御用を勤めて巨萬の富を積み、町人ながら苗字帶刀めうじたいたうを許され、特に當代の主人六右衞門は、頑固で正直で少し口やかましくはあるが、江戸中の商人あきんど仲間にも立てられた人間です。