蟇口がまぐち)” の例文
小村は蟇口がまぐちから一枚の紙幣をつまみ出して相手に握らせた。放浪者はひどく辞退していたが、熱心な小村のことばに動かされてしまった。
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
そこへ十八九に見える姿の好い女給が勘定書かんじょうがきを持って来た。彼はインバの兜衣かくしから蟇口がまぐちを出してその金を払うとともにすぐ腰をあげた。
青い紐 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
昼間、なんかの時に帯の間にはさんだ蟇口がまぐちを、念のため調べてみた。小銭がいくらか、まあこれだけあればタクシーには乗れるだらう。
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
葉子は帯の間から蟇口がまぐちを出して、いくらかの金を舟子に与えたが、舟はすでに海へ乗り出していて、間もなくなぎさに漕ぎ寄せられた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ナニイ、五十銭玉ばっかりだア。嘘をけ。蟇口がまぐちを見せろ。ホオラ一円札があるじゃないか。コイツを一枚よこせ。釣銭なんかないよ。
超人鬚野博士 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼女が笑ったので、口が蟇口がまぐちのように大きいのが分った。かの巷談師はこの言葉が気に入ったので、おとなしくついて行くことになった。
巷談師 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
そうして何と思ったのか、蟇口がまぐちを取り出して中から五十銭銀貨をつまんだかと思うと、廊下の隙間から縁の下へポタンと落した。
贋紙幣事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は蟇口がまぐちの中から自分の公用の名刺を出して警官に差出した事である。
雑記(Ⅰ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
減って来たのか、減っていたのに気がついたのか分らない。蟇口がまぐちには三十二銭這入っている、何か食おうかしらと考えていると
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
食うてしまったあとで、蟇口がまぐちのぞいて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
それから、俊夫君は下駄や、蟇口がまぐち兵児帯へこおびを綿密にしらべましたが、別に変わったところも無いと見えて、手帳には何も書きこみませんでした。
頭蓋骨の秘密 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
薄茶の夏外套をまとった四十前後の男が乗客婦人のオペラ・バッグより蟇口がまぐちを抜き取ろうとしたのを発見され、有楽町駅にて警官に引き渡された。
(新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
私は、喜んでその道具を蟇口がまぐちへ入れ、きのう『猫』で買った鮒竿をかついで、足どり軽く飯泉橋を酒匂川の東岸へ渡った。
想い出 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
彼女は風呂敷に包んだ反物と蟇口がまぐちの金とを胸算用で、丁度あるかどうかやってみるが頭がぐら/\して分らなくなる。……
窃む女 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
一つ二つ三つ……合計六個の、なんと、蟇口がまぐちが這入っていたではないか。一つ一つあけて見たが、中はいずれも空っぽだ。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
その時自分の蟇口がまぐちには、六円といくらかあった。それがその月中の小遣だったのだ。京都座の前で、自分は何等を買おうかと、ちょっと思案した。
天の配剤 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「一等幾万円」にはちょっと心が動いたが、あるいは足の運びがのろくなったのかもしれん、とにかく蟇口がまぐちの中に残っているのはわずかに六十銭。
端午節 (新字新仮名) / 魯迅(著)
そのうちに博士がどこにいるやら、実験台がどこにあるやら、はては自分の蟇口がまぐちがどこにあるやら、皆目かいもく分らなくなってしまうというようなわけで
しかし千歳座の方は友人のS君と二人連れで見物に行って、自分自身の貧しい蟇口がまぐちから勘定を支払ったのであるから、わたしは確かに記憶している。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
勘定かんじょう蟇口がまぐちから銀貨や銅貨をじゃらつかせながら小畑がした。可愛いおんなの子が釣銭と蕎麦湯と楊枝ようじとを持って来た。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
いかなる粗末な蟇口がまぐちの中にも金のないことはなく、いかなるあわれな住家にも何らかの喜びのないことはなかった。
自分は現在蟇口がまぐちに二三円しかなかったから、不用の書物を二冊渡し、これを金にえ給えと云った。青年は書物を受け取ると、丹念たんねん奥附おくづけしらべ出した。
子供の病気:一游亭に (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ところがこの頃退引のっぴきならない事情があって沼南に相談すると、君の事情には同情するが金があればいいがネ、とたもとから蟇口がまぐちを出してさかさに振って見せて
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
次郎がその小さな飾窓かざりまどのまえに立って待っていると、俊亮は間もなく、小さな蟇口がまぐちを、ぱちんと音をさせながら出て来た。そして、それを次郎に渡しながら
次郎物語:02 第二部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
自動車が××署の前に止まると、沖田刑事は蟇口がまぐちの底をはたいて車賃を払いながら、二階の一室へ桝本を連れ込んでおいて、とりあえず署長室へ報告に行った。
五階の窓:03 合作の三 (新字新仮名) / 森下雨村(著)
と、己は譫語うわごとのように云った。そうして彼が無理に握らせた二十銭銀貨を大人おとなしくふところ蟇口がまぐちの中へ入れた。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
へん、鈍漢のろま。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口がまぐちが有るもんかい、とっくの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しなに鏡台の曳出ひきだしから蟇口がまぐちを取出す時、村岡の手紙が目に触れたまま一緒に帯の間に挿込さしこんだ。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「占め占め。」と、庄亮、蟇口がまぐちにねじ込んで、懐中に固くしまうと、「さあ、飲むぞ、飲むぞ。」
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
それ以外に何の意味を持つものでないとさとった氏は、一枚の履歴書と学校の辞令と、戸籍謄本こせきとうほんとそれから空の蟇口がまぐちとをポケットに入れて、とにかく前へ前へと足を出した。
地図にない街 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
かうして慨せざる可けんやと、息巻いきまき荒き人の声の、蟇口がまぐちの中より出づるものならぬは、今に於てわれの確信する所なりと雖も、曾て燕趙悲歌えんてうひかの士おほしてふ語をきける毎に
青眼白頭 (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
めしを食いに行こう!」と桂は突然いって、机の抽斗ひきだしから手早く蟇口がまぐちを取りだしてふところへ入れた。
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
洋服を着て仕舞しまへば、時計、手帳、蟇口がまぐち手巾ムシヨワアル、地図、辞書、万年筆まんねんふでと、平生持歩く七つ道具はの棚とこの卓とに一定して置かれてあるので、二分と掛らないで上衣うはぎ下袴パンタロン
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
わたしに見せておまけに『俺は盗みもしてきたんだよ、つい一分前まで、仲よく話していた友達を、いきなり絞め殺して、そいつの懐から、ほらこの通り蟇口がまぐちをぬきとってきたんだ』
華やかな罪過 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
私は尻の上に位置するズボンのポケットから蟇口がまぐちを引き出しながら、店の主人に値段を訊き、思わずまた底の方へ押し込まなければならなかった。三円五十銭だと云うのである。
結局、朝から夕方まで、ぼんやりすわったり歩いたりしただけで、帰ってきました。帰ってからポケットにふと、手を入れると、全財産百五十弗ばかりを入れた蟇口がまぐちがありません。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
寝たまま腕をのばして、母は枕もとの蒲団ふとんの下から蟇口がまぐちを引きずり出して私の方へぽいとそれを投げた。中から五銭の白銅貨と銅貨が三つ四つばらばらと畳の上にころがり落ちた。
此の節は、旦那の出らるゝ前に、ひそかに蟇口がまぐちの内を診察いたしおき候。買ひし物を
釣好隠居の懺悔 (新字旧仮名) / 石井研堂(著)
ぼんやりと部屋に帰った久助はぼんやりと朋輩の行李こうりを開けていた。そして、その底に入れてあった蟇口がまぐちの中から、五円の札を一枚抜きとると、そのままぼんやりと夜道を歩いて行った。
忠僕 (新字新仮名) / 池谷信三郎(著)
そうして蟇口がまぐちから五十銭銀貨を一枚出して、何処どことかで、五十銭の蛇の目を見たから、そういうのを一本買って来てもらいたいといって、変な顔をしている三造にそれを渡すのであった。
斗南先生 (新字新仮名) / 中島敦(著)
これはまた園があまり真剣に考えすぎたなと思うと、人見には即座に返事をするのが躊躇ちゅうちょされた。その時ふっと考えついた思案をすぐ実行に移した。彼は懐中をさぐって蟇口がまぐちを取りだした。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
下唇をべろりとめ、そう事がわかれば何も事を荒立てはせん、と無造作に蟇口がまぐちを出して十円紙幣を入れ、顎を捻りながら、大きにお邪魔した、友田氏には何も云わないから安心したまえ
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
そして蟇口がまぐちから料金を出しながら、切符とは別なことを切り出した。
白妖 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
蟇口がまぐちから三十銭出すと、手に握って持った。歩きながら、ワザと口笛をふいた。そしたら女は顔を出す、と思った。前まで来たが、出てこなかった。龍介は往来でちょっとかがんで中をのぞいてみた。
雪の夜 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
玄関の蹈段ふみだんの上に突っ立って、貴様がもう冷たくなった面をさらしながら、眼の色をくしている間に、おれは、ポケットの中へ手を差し込み、蟇口がまぐちを探す。そしてからっぽの手を引き出して見せるんだ。
「わたし、柳屋で見た、蟇口がまぐち
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
モウ十一月というのに紺サージの合服と、汽車の中で拾った紅葉材もみじざいのステッキ一本フラットというんだから蟇口がまぐちの中味は説明に及ぶまい。
山羊髯編輯長 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
三枝庄吉も亦、真ッ先に慌てふためいて蟇口がまぐちをとりだす組で、然しこの組の連中ほど貧のつらさ、お金の有難さを骨身にしみて知る者はない。
オモチャ箱 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
「実際、おめえの手にかかっちゃ叶わねえな。全くおめえの指は素晴らしい指だよ。俺なんか、今夜はまだ蟇口がまぐち一つだ。」
指と指環 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
柾木は震える手で蟇口がまぐちを開いた。番頭は仕方なく、その品物を若い店員に持って来させて、「じゃあまあお持ちなさい」と云って柾木に渡した。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)