糊口ここう)” の例文
わたくしははやくから文学は糊口ここうの道でもなければ、また栄達の道でもないと思っていた。これは『小説作法』の中にもかいて置いた。
正宗谷崎両氏の批評に答う (新字新仮名) / 永井荷風(著)
が、文壇的活動は元来本志でなく、一時の方便として余儀なくされたのだから、その日その日を糊口ここうする外には何の野心もなかった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
自分の職業とする仏師の仕事その物にも不安であると同時に、仏師の仕事によって糊口ここうして行けるか否やについても不安である。
当市の監獄には、大阪のそれとことなりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡婦かふなどが糊口ここうの勤めとなせるなりき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
また二人以上の男子を持った親は、そのうちの一人を出家にすることは珍しくなかったのだが、これも一つには糊口ここうの都合からしてのことらしい。
そこには糊口ここうみちを失った琴の師匠が恥も外聞も思っていられないように、大道に出て琴をひくものすらあった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
しばしば人に咬み付く故十分愛翫するにえずとは争われぬが、パーキンスが述べたごとく、飼い主の糊口ここうのために舞い踊りその留守中に煮焚きの世話をし
それで糊口ここうのための奔走はもちろんの事、往来に落ちたばらせんさがして歩くような長閑のどかな気分で、電車に乗って、漫然と人事上の探検を試みる勇気もなくなって
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
 春代は流れ流れて大阪に来たが、糊口ここうに窮して遂に初代を捨てた。それを木崎夫妻が拾ったのである。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ことに政府の新陳しんちん変更へんこうするに当りて、前政府の士人等が自立のを失い、糊口ここうめに新政府に職をほうずるがごときは、世界古今ここん普通のだんにしてごうあやしむに足らず
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
俗宗匠が附点選抜を以て糊口ここうとなさんとするには、感化力を下等社会に及ぼすの必要あるかも知らず。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
それも家族の糊口ここうしのぐ汗多き働きである。一人の作ではなく、一家の者たちは挙げて皆この仕事に当る。あしたゆうべも、暑き折も寒き折も、忙しい仕事に日は暮れる。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
保吉はたちまち熱心にいかに売文に糊口ここうすることの困難であるかをべんじ出した。弁じ出したばかりではない。彼の生来せいらいの詩的情熱は見る見るまたそれを誇張し出した。
十円札 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
彼はできるだけ早く、糊口ここうの道を立てなければならなかった。もう五フランしか残っていなかった。
流れ流れて日本の領土にまで移り住んで、そしてまだまだ住みついたというでもなく、言葉も通じなければ、かろうじてしか日常の糊口ここうすら凌げないという一家である。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
やむなく山案内ガイドを志願いたしまして、辛くも糊口ここうを支えているような次第でございます。
或は奥へ請ぜられて加持祈祷かじきとうをし、日々僅かな布施ふせを得て糊口ここうしのいでいたらしかったが、どうかすると、こんな工合にたった一人で河原や橋のあたりへ来てうろついていたり
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
よし渠は糊口ここうに窮せざるも、月々十数円の工面くめんは尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして泊まり合わせた旅の手品師と同行して、いつのまにか手品を習い覚え、同じ旅の手品師としてわずかに糊口ここう草鞋わらじしろを得ながら、旅に旅を重ねてこんにちにいたったのだという。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
郷里くにに帰るといふ事と結婚といふ事件と共に、何の財産なき一家の糊口ここうの責任といふものが一時に私の上に落ちて来た。さうして私は、其変動に対して何の方針も定める事が出来なかつた。
弓町より (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
小田原へ逃げのびてきて糊口ここうをしのぎ、原稿をかいてどこかの部屋をかりる当がつくとサッサと飛びだすという習慣、恩愛の情など微塵もなく、ただもうヤッカイ千万な奴だと思っている。
オモチャ箱 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
必ず衣食住のほかに安心したいとの一念が、常に動き出して止めることがむずかしい。いかに貧困にして毎日の糊口ここうに追わるるような身分でも、一日として安心を願わざる者はありませぬ。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
糊口ここうの労苦に追われて、クリストフのためには日に一時間しかけなかったし、それさえ無理なことがしばしばだった。しかしその十年間、一日としてクリストフに面接しない日はなかった。
開演しさえすればとのはかないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に糊口ここうにも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
今日はどん底まで糊口ここうに窮して売淫する悲惨な女はすくない。
私娼の撲滅について (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
二葉亭が二度の文人生活を初めたのは全く糊口ここうのためで文壇的野心が再燃したわけでなく、ドコまでもシロウトの内職の心持であった。
二葉亭追録 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
が、さればといって木彫りの注文はさらになく、注文がないといって坐って待ってもいられない。かくてはたちまち糊口ここうに窮し、その日の生計くらしも立っては行かぬ。
あたかも郷里よりしたい来りける門弟のありしを対手あいてとして日々髪結洗濯のわざをいそしみ、わずかに糊口ここうしのぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
それも家族の糊口ここうしのぐ汗多き働きである。一人の作ではなく、一家の者たちは挙げて皆この仕事に当る。晨も夕べも、暑き折も寒き折も、忙しい仕事に日は暮れる。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
彼は生に立ち直ってからは、糊口ここうの方法を安全にしなければならなかった。その町を去ることは彼にとって問題であり得なかった。スイスはもっとも安全な避難所だった。
わずかに医学の初歩を学び得るときは、あるいは官途に奉職し、あるいは開業して病家に奔走し、奉職、開業、必ずしも医士の本意に非ざるも、糊口ここうの道なきをいかんせん。
学問の独立 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口ここう、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
右篠と申候は、百姓惣兵衛の三女に有之これあり、十年以前与作方へ縁付き、里をまうけ候も、程なく夫に先立たれ、爾後再縁も仕らず、機織はたお乃至ないし賃仕事など致し候うて、その日を糊口ここうし居る者に御座候。
尾形了斎覚え書 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
それから全くの浪人となってあしたに暮をはからずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見る見る会話がうまくなり、古道具屋の賽取さいとりしてどうやらこうやら糊口ここうし得たところが生来の疳癪かんしゃく持ちで
郷里くにに帰るということと結婚という事件とともに、何の財産なき一家の糊口ここうの責任というものが一時に私の上に落ちてきた。そうして私は、その変動に対して何の方針もきめることができなかった。
弓町より (新字新仮名) / 石川啄木(著)
たちまちにして畑の芋盗人いもどろぼうとなり、奥方は賃仕事をして糊口ここうをしのいだ。
旧聞日本橋:08 木魚の顔 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
この寛闊かんかつな気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからもせないで、画はやはり風流としてたのしんでいた、画を売って糊口ここうする考は少しもなかった。
その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵おんめぐみによりてもはや自活の道を得たれば、仮令たとい今よりこの家をわるるとも、糊口ここうに事を欠くべしとは覚えず。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口ここうの口がないか何か生活の手蔓てづるはないかと朝から晩まで捜して歩いている。
道楽と職業 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
傍らにまばらに置かれてある絵具皿やすずりや筆を思えば、それが糊口ここうをしのぐ貧しい業であったことが分る。丁度私たちの町々に、今も傘屋かさや提灯屋ちょうちんやが店先で売りつつ仕事を急いでいるのと同じである。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
妻子を抱えているものは勿論もちろんだが、独身者すらも糊口ここうがし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、「僕だって社からは十五円しかもらわないよ」というのがきまった挨拶であった。
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)