におい)” の例文
犬は毛の長い耳を振って、大きな欠伸あくびを一つすると、そのまままたごろりと横になって、仔細しさいらしく俊助の靴のにおいを嗅ぎ出した。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
監獄にいた時どうだとか云うことを幾度いくども云って、息張いばるかと思えば、泣言を言っている。酒のにおいが胸の悪い程するのである。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
もたれつ気の無いにおいに浸されるところに嬉しい、新しみの強い、いき/\した、張りのあるいゝ気持をおぼえるのだ。
菖蒲湯 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
にれかしや栗や白樺などの芽生したばかりのさわやかな葉の透間から、煙のように、またにおいのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向ひなたとの加減が
明るい色の髪の毛から、鬱陶うっとうしいようなかおりが立つ。男はこのしなやかな、好いにおいのする人を、限りなく愛する情の、胸にき上がって来るのを覚えた。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
こんなにおいなど比較にならん位、いましがた私の書いたばかりの夢のなかの匀は好い匀だったし、これから私の書こうとする夢のなかで私の飲んだ葡萄酒(?)は
鳥料理 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
柳のにおい、日に蒸されて腐る水草の匀がする。ホテルからは、ナイフやフォオクや皿の音が聞える。投げられた魚は、地の上で短い、特色のある踊をおどる。未開人民の踊のような踊である。
(新字新仮名) / ペーター・アルテンベルク(著)
それで中庭に籠っている空気は鉛のにおいがする。
あの魔女の台所のにおいがするようだ。6230
と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風ほこりかぜが過ぎると共に、実生活のごとく辛辣しんらつな、眼にむごとき葱のにおいが実際田中君の鼻を打った。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
大野が来賓席の椅子いすに掛けていると、段々見物人が押して来て、大野のひざの間の処へ、島田にった百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油とのにおいがする。
独身 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
なんだか病人の髪の毛から、いやな甘ったるいにおいが立ち昇って部屋中に満ちているように思うのである。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
別に毒のにおいなどはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心をとう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
しかしその香炉の烟りは好いにおいがする 何ともかとも云いようのないほど好い匀がする
鳥料理 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
においある涼しいそよぎをあたりにみなぎらせている。
薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこのにおいの好い雨を浴びたまま、呆気あっけにとられて立ちすくんでいた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
虎斑とらふの猫が一匹積み上げた書物の上に飛び上がって、そこで香箱を作って、腸詰のにおいいでいる。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
なんだか近い公園から、遅れ咲きの花のが、この狭い町へ迷い込んで来たようで、部屋に這入はいって来る空気に、いつにない美しいにおいがある。女は病人の方を振り返った。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
もうあのかなえから烟のにおいみなぎって来そうだ。
お蓮はそうつぶやきながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀のにおいが、ぎ澄ましたはがねの匀が、かすかに彼女の鼻を打った。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「何だ。お前のそでからは馬鹿ににおいがするじゃあないか。何を持っているのだ。」
里芋の芽と不動の目 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
彼と同じ桃花とうかの寝床には、酒のにおいのする大気都姫おおけつひめが、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
かすかparfumパルフュウムにおいがおりおり純一の鼻を襲うのである。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その寂寞を破るものは、ニスのにおいのする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
何やらの化粧品のに交って、健康な女の皮膚のにおいがする。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それと共に、頭の中の大井の姿は、いよいよその振っている手巾ハンケチから、濃厚に若い女性のにおいを放散せずにはすまさなかった。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水のにおいまでさせている容子ようすでは、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しかもその途端に一層私をおびえさせたのは、突然あたりが赤々とあかるくなって、火事を想わせるような煙のにおいがぷんと鼻を打った事でございます。
疑惑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
彼はふなばたに身をもたせて、日にされた松脂まつやににおいを胸一ぱいに吸いこみながら、長い間独木舟まるきぶねを風の吹きやるのに任せていた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水のにおいの匀が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……
尾生の信 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
この時丁子ちょうじの花のにおいが、甘たるく二人の鼻を打った。二人ともほとんど同時に顔を挙げて見ると、いつかもうディッキンソンの銅像の前にさしかかる所だった。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
譚はたちまち黄六一の一生の悪業を話し出した。彼の話は大部分新聞記事の受け売りらしかった。しかし幸い血のにおいよりもロマンティックな色彩に富んだものだった。
湖南の扇 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「みんなもう過ぎ去った事だ。善くっても悪くっても仕方がない。」——慎太郎はそう思いながら、のりにおいのするくくり枕に、ぼんやり五分刈ごぶがりの頭を落着けていた。
お律と子等と (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
においの高い巻煙草をくわえながら、じろじろ私たちの方をうかがっていたのと、ぴったり視線が出会いました。
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
やはり鶴屋南北つるやなんぼく以来の焼酎火しょうちゅうびにおいがするようだったら、それは事件そのものに嘘があるせいと云うよりは、むしろ私の申し上げ方が、ポオやホフマンのるいすほど
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
小僧の一人が揃えて出した日和下駄ひよりげたを突かけて、新刊書類の建看板が未に生乾きのペンキのにおいを漂わしている後から、アスファルトの往来へひょいと一足踏み出すと
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
のみならず、霧のような雨のしぶきも、湿った土のにおいと一しょに、濛々もうもうと外から吹きこんで来ます。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
わたしはいよいよ彼女の体に野蛮やばんな力を感じ出した。のみならず彼女のわきしたや何かにあるにおいも感じ出した。その匀はちょっと黒色人種こくしょくじんしゅ皮膚ひふ臭気しゅうきに近いものだった。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「うん、——それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦ばかに好いにおいがするじゃありませんか?」
お律と子等と (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足はだしを力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉のにおいのする、築土ついじつづきの都大路みやこおおじを、とぼとぼと歩いて参ります。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
草花のにおい、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧きのぼる調子はずれのカルメンの音楽、——陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒ビールを前にしながら、たった一人茫然と
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
もう花橘はなたちばなにおい時鳥ほととぎすの声とが雨もよいの空をおもわせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、おぼろげには人の顔が見分けられるほどだったと申します。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
先には土いきれにしぼんだつぼみが、花びらを暑熱にねじられながら、かすかに甘いにおいを放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、においの好い煙を吐いて
魔術 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
またその一団は珍しそうに、幾重いくえにも蜜のにおいいだいた薔薇の花の中へまぐれこんだ。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水のにおいのする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやりあかるんで見えるのは、月が出ているからに違いない。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それ以来私はあきらかに三浦の幽鬱な容子ようすかくしている秘密のにおいを感じ出しました。勿論その秘密の匀が、すぐむべき姦通かんつうの二字を私の心にきつけたのは、御断おことわりするまでもありますまい。
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
するとその御容子ごようすにひき入れられたのか、しばらくの間は御姫様を始め、私までも口をつぐんで、しんとした御部屋の中には藤の花のにおいばかりが、一段と高くなったように思われましたが
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のにおいあおりながら、ひたすべりに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」——良平は羽織に風をはらませながら、当り前の事を考えた。
トロッコ (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
同時にまた川から立昇たちのぼにおいや水の匀も、冷たく肌にまつわり出した。
尾生の信 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)