嫌悪けんお)” の例文
旧字:嫌惡
だが、手をのばした自分の姿の弱さや醜さに嫌悪けんおを覚え、ひもじさをこらえて、じっと立ちすくんだ時のみじめさは、どうであろう。
次郎物語:02 第二部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
彼は嫌悪けんおの身震いをした。殺害の光景が浮かんできた。人を殺したことを思い出した。なにゆえに殺したのかはもうわからなかった。
うん、そうだ、評論家というものには、趣味が無い、したがって嫌悪けんおも無い。僕も、そうかも知れん。なさけなし。しかし、口髭……。
渡り鳥 (新字新仮名) / 太宰治(著)
貞操をもてあそばれがちな、この社会の女に特有な男性への嫌悪けんおや反抗も彼女には強く、性格がしばしば男の子のように見えるのだった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
男は背が低く、やせて、色を失い、荒々しく、狡猾こうかつで残忍で落ち着かない様子であって、一言にして言えば嫌悪けんおすべき賤奴せんどだった。
むしろ彼は発育の不十分な、病身で内気で、たとい女のほうから言い寄られたにしても、嫌悪けんおの感をいだくくらいな少年であった。
死屍を食う男 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
『どうも無造作すぎるな』とわたしは、思わずき上がる嫌悪けんおの情をもって彼女のぶざまな様子をじろじろながめながら、心の中で考えた。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
人々は猜疑さいぎ嫌悪けんおまゆをひそめる。父の一身に非難が集まる。その時に子はどうしたらよいのであろう。会うのがよいか会わぬがよいか。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
ここには誇張も嫉妬しっともない代りに、浮華ふかに対する嫌悪けんおがあまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼は、夫人の至上命令のため、むなく自動車に乗ったものの、内心の不安と苦痛と嫌悪けんおとは、その蒼白あおじろい顔にハッキリと現われていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
軽蔑と嫌悪けんおの念とをよび起こし、女のほうを根負けさせて、ただそれだけで、女の手を逃げようとあせっていたのに相違ない。
それは嫌悪けんおを感じさせると同時に好奇心を感じさせるのも事実だった。菰の下からは遠目とおめにも両足のくつだけ見えるらしかった。
寒さ (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
すうすう風の這入はいって来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせると旅行と称する娯楽の嫌悪けんおすべき序開じょびらきである。
夏の町 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「文人読者をして新思想を抱かしめ、知らず識らず旧思想を嫌悪けんお否定するに至らしむるの用意なかるべからず」とは手段の緩急かんきゅうをいへるなり。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
何も、いくら強いにせよ、吉岡の兄弟二人を討ち、三度目に来るその子までを討ち斬るには及ぶまいと、武蔵の残忍に嫌悪けんおを持っていうのだ。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それが彼らに対するさげすみと嫌悪けんおの情とからくる放任に過ぎないということは、ことごとにあたっての役人たちの言動に現われるのであった。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
だが私は閉口しなかった。それで不足ならやめにしよう、と云った。みずからおのれをけがすような、やりきれない自己嫌悪けんおとたたかいながら。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
私には夫を嫌悪けんおする気持と愛する気持とが相半ばしていたのであったが、この頃は日々嫌悪一方に傾いて行きつつある。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そうして、懊悩おうのう嫌悪けんおの念を持って、わたしは去年のシーズンのことや、ウェッシントン夫人のことを思い出した。
わたしのこころは、はげしい嫉妬と嫌悪けんおでいっぱいになって、十日も飢えている虎のように、わが指を噛みました。
ビュルストナー嬢の部屋に彼らが現われたことは、彼をして初めてこの男たちに注意をはらわせたのだったが、彼の嫌悪けんおはもっと前からのものである。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
と、浪路は、抱き締められながら、骨太なかいなの圧迫や、毒々しい体熱のぬくもりに、言うばかりない嫌悪けんおを感じて、相手の言葉が、耳にも入らず、もだえた。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
ことにこんな奴、だんだんに嫌悪けんおの情の加わってくるこんな人間に、自分の住居を見られるのはいやであった。
真面目まじめに信じているのである、現に私の宿の女中や、近所の村から湯治に来ている人たちは、一種の恐怖と嫌悪けんおの感情とで、私に様々のことを話してくれた。
猫町:散文詩風な小説 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
今日いずれの方面を見ても、擬古典的嫌悪けんおを感ずるのは、すなわちこの真の鑑賞力の欠けているためである。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
嫌悪けんおの情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
わげがその口の形をしているのです。その絵に対する私の嫌悪けんおはこのわげを見てから急に強くなりました。
橡の花 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
花岡 ヘ! (さきほどから、あおりつづけていたウィスキイの酔いが出て来るのと同時に、急に佐山の話が、がまんできなくなり、ほとんど憎悪ぞうおに近い嫌悪けんおで)
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
そういう男に対する嫌悪けんお憤怒ふんぬのいろが、白く、彼の額部ひたいを走った。同時に、お高に対しては、すこしくやさしい心になったらしい。腕を組んで、庭へ眼をやった。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
やがて杜の方に向ってきりのように鋭い嫌悪けんお眼眸がんぼうを強く射かけると、長い腕をまわして、ミチミの身体を自分のたくましい肩の方へ引きよせ、そしてグッと抱きしめた。
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「しかし、恐怖というよりほかは言いようがないのだ、嫌悪けんおじゃなし、憎悪ぞうおじゃなし、やっぱり怖ろしいんだ、あの二つの音に、恐怖を感ずるとより言いようがない」
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その私の名前は、すでにあまりにわが家門の侮蔑ぶべつの——恐怖の——嫌悪けんおの対象でありすぎている。
宗教や芸術や教育について、様々に饒舌じょうぜつする自分の姿に嫌悪けんおを感ぜざるをえない。「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことを言っている僕が、愚にみえるだろうか。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
しかし世の中にはあらゆる芸術に無感覚なように見える人があり、またこれを嫌悪けんおする人さえあるように見える。こういう人たちは「心のピアノ」を所有しない人たちである。
備忘録 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
なんともいえぬ嫌悪けんおの情にガクガクと身内のふるえるのをどうすることもできなかった。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
誇張こちょうしていえば、その時豹一の自尊心は傷ついた。また、しょんぼりした。はずかしめられたと思い、性的なものへの嫌悪けんおもこのとき種を植えつけられた。敵愾心てきがいしんは自尊心の傷からんだ。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
何か浅草に嫌悪けんお軽蔑けいべつの、そして幾分恐怖の背を向けて、——そのように、停車場と国際劇場の間を直線的に、さっさと脇目わきめもふらずに往復していて、六区の方へ一向にそれようとせず
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
汚れたものとして嫌悪けんおをお続けになった自分の肉体を悲しむ心が出家のおもな動機になり、尼になった時からはいっさいの愛欲を忘れることができて、静かな平和な心を楽しんでいる自分に
源氏物語:38 鈴虫 (新字新仮名) / 紫式部(著)
自己嫌悪けんおに打負かされまいと思って、彼の額から脂汗あぶらあせがたらたらと流れた。
老妓抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
墓をとりまくべきものは、死んだ人に対して愛情や尊敬の念をおこさせるものであり、生きている人を正しい道にみちびくものである。墓は嫌悪けんお驚愕きょうがくの場所ではなく、悲哀と瞑想の場所である。
「みじめな男」についてのあの有名な物語は、その柔弱な愚劣な半悪党の姿に具体化されている。当代のいかがわしい心理主義への嫌悪けんおの激発として解釈するほかに、どんな解釈の仕様があろう。
お光はたとえようのない嫌悪けんお目色まなざしして、「言わなくたって分ってらね」
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
だから彼らの渡世では、神聖な儀式になっている建前から、こんな濡れ鼠のような恰好かっこうで帰って行かれるわけはないのだ。意識がはッきりするにつれて彼は収拾のつかない自己嫌悪けんおに駆られていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
嫌悪けんおすべき暴力によって窒息させられる!……そう思うと息もつけなかった。別れてゆく母も故国も、彼の念頭には浮かばなかった。
清廉、真摯しんし、誠直、確信、義務の感などは、悪用せらるる時には嫌悪けんおすべきものとなるが、しかしなおそれでも壮大さを失わない。
彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。同時に人格の反射から来るその人に対しての嫌悪けんおの情も禁ずる事が出来なかった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
商売人あがりの小夜子には求められない魅力を惜しまないわけに行かなかった。嫌悪けんおと愛執との交錯した、悲痛な思いに引きられていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえかよっているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい嫌悪けんおの感に、おもてを打たれるような心もちがした。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
西洋近代思潮は昔日の如くわれを昂奮刺㦸せしむるに先立ちていたずらに現在のわれを嫌悪けんおせしめ絶望せしむ。われは決して華々はなばなしく猛進奮闘する人をむにらず。
矢立のちび筆 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
そうして日本酒のお銚子ちょうしを並べて騒いでいる生徒たちに、嫌悪けんお侮蔑ぶべつと恐怖を感じていたものであった。
酒の追憶 (新字新仮名) / 太宰治(著)