“太子(たいし)” の例文
元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸(ひとまろ)の太子(たいし)追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自(おのずか)ら分るものなり、といひきといふ。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
すると新羅(しらぎ)の使者(ししゃ)の中に日羅(にちら)という貴(とうと)い坊(ぼう)さんがおりましたが、きたない童(わらべ)たちの中に太子(たいし)のおいでになるのを目ざとく見付(みつ)けて
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
景隆が大軍功無くして、退いて徳州(とくしゅう)に屯す。黄子澄其(その)敗(はい)を奏せざるを以(もっ)て、十二月に至って却(かえ)って景隆に太子(たいし)太師(たいし)を加う。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
稱して北の御門(みかど)と云其譯は天子に御世繼の太子(たいし)在(ましま)さぬ時は北の御門御夫婦禁庭(きんてい)へ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
起(き)を撃(う)つの徒(と)、呉起(ごき)を射刺(せきし)するに因(よ)つて、并(あは)せて悼王(たうわう)に中(あ)つ。悼王(たうわう)既(すで)に葬(はうむ)られて、太子(たいし)立(た)つ。乃(すなは)ち(一一〇)令尹(れいゐん)をして盡(ことごと)く呉起(ごき)を射(い)て并(あは)せて王(わう)の尸(し)に中(あ)てし者(もの)を誅(ちう)せしむ。
孔明は、この報(し)らせに、すぐ旅装をととのえ、太子(たいし)劉禅(りゅうぜん)を都にのこして、まだ幼(いとけ)ない劉永(りゅうえい)、劉理(りゅうり)の二王子だけを伴うて、旅の道も夜を日に継ぎ、やがて永安宮に来(きた)りまみえた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
例(たと)へば河内(かはち)にある聖徳太子(しようとくたいし)の御墓(おはか)には、太子(たいし)の母后(ぼこう)と、太子(たいし)の妃(きさき)と三人(さんにん)の御棺(おかん)を容(い)れてあるとのことです。また中(なか)には死者(ししや)を石棺(せきかん)でなく木棺(もくかん)にいれて葬(はうむ)つた石室(せきしつ)も多(おほ)くあります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
ハムレット太子(たいし)の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地(すみごこち)の好(よ)さそうな田舎家(いなかや)が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に埋(うず)もれて、夢を見るように
冬の王 (新字新仮名) / ハンス・ランド(著)
天皇(てんのう)ははじめて、なるほど太子(たいし)はそういう貴(とうと)い人の生(う)まれかわりであったのかとお悟(さと)りになって、お経(きょう)を太子(たいし)に下(くだ)さいました。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
忠後(のち)に仕えて兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)を以て太子(たいし)監国(かんこく)に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
龐涓(はうけん)自(みづか)ら・智(ち)窮(きは)まり兵(へい)敗(やぶ)るるを知(し)り、乃(すなは)ち(五七)自剄(じけい)して曰(いは)く、『遂(つひ)に(五八)豎子(じゆし)の名(な)を成(な)せり』と。齊(せい)、因(よ)つて勝(かち)に乘(じよう)じて盡(ことごと)く其軍(そのぐん)を破(やぶ)り、魏(ぎ)の太子(たいし)申(しん)を虜(とりこ)にし(五九)以(ゐ)て歸(かへ)る。
それにこの田楽狭間(でんがくはざま)と呼ぶ原山は、四囲の山々のいずれより低く、盆地の中の丘といった地勢であったから、時々、前方の低地を隔てた真正面の太子(たいし)ヶ嶽(たけ)あたりから、青葉時らしい冷たい風が、颯(さっ)と
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
摂津(せっつ)の大阪(おおさか)にある四天王寺(してんのうじ)、大和(やまと)の奈良(なら)に近(ちか)い法隆寺(ほうりゅうじ)などは、みな太子(たいし)のお建(た)てになった古(ふる)い古(ふる)いお寺(てら)でございます。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
義元の帷幕(いばく)で、旺(さか)んにそう嘲(あざけ)り笑われていた時刻、その信長は、街道の小坂、相原村の中間から、太子(たいし)ヶ嶽(たけ)の道なき道を遮(しゃ)二無二越えて、もう義元の本陣へいくらもない地点まで来ていたのであった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)