蒼茫そうぼう)” の例文
見渡すかぎり蒼茫そうぼうたる青山の共同墓地にりて、わか扇骨木籬かなめがきまだ新らしく、墓標の墨のあと乾きもあえぬ父の墓前にひざまずきぬ。
父の墓 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
ひとしく、その蒼茫そうぼうとしたふしぎな空、ふしぎな蒼白い星のかずかず、そういうものは夜になると沼の上をおおうてくるのでした。
寂しき魚 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
しかし戸外そとは月の光が蒼茫そうぼうと空地に流れているばかり、林や森や土人小屋は、黒く朦朧もうろうと見えもするがジョンらしい少年の姿は見えない。
日はいつのまにか沈んで、あたりは蒼茫そうぼうとして暮れようとしてゐた。その中を、少年はほとんど小走りにならんばかりに心せはしく歩いた。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
妙見の長い山脚を越えて、千々岩岳、吾妻岳、九千部くせんぶ岳などが蒼茫そうぼうとして暮行くれゆく姿を見せ、右方うほう有明海の彼岸ひがんには多良たら岳が美しい輪廓りんかくを描く。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫そうぼうたる暮烟ぼえんにつつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以ゆえんであろう。
元八まん (新字新仮名) / 永井荷風(著)
線路の上まで白いしぶきのかかるあの蒼茫そうぼうたる町、崩れたがけの上にとげとげと咲いていたあざみの花、皆、何年か前のなつかしい思い出である。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
南は山影暗くさかしまに映り、北と東の平野は月光蒼茫そうぼうとしていずれか陸、いずれか水のけじめさえつかず、小舟は西のほうをさして進むのである。
少年の悲哀 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
腹をひたした水の上には、とうに蒼茫そうぼうたる暮色が立ちめて、遠近おちこちに茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりしたもやの中から送って来る。
尾生の信 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
越しかたかえりみれば、眼下がんかに展開する十勝の大平野だいへいやは、蒼茫そうぼうとして唯くもの如くまた海の如く、かえって北東の方を望めば、黛色たいしょく連山れんざん波濤はとうの如く起伏して居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
そしてこれも双眼鏡をぴたりと両眼につけ、蒼茫そうぼうとくれゆく海面に黒煙をうしろにながくひきながら、全速力で遠ざかりゆくその怪貨物船にじっと注目した。
火薬船 (新字新仮名) / 海野十三(著)
夕暮が近いのであろう、蒼茫そうぼうたる薄靄うすもやが、ほのかに山や森をおおうている。その寂寞せきばくわずかに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだろう。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
縁側の障子も窓のほうも、すでに蒼茫そうぼう黄昏たそがれの色が濃くなって、庭の老松にはしきりに風がわたっていた。
日本婦道記:墨丸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
眼前にひろがる蒼茫そうぼうたる平原、かすれたようなコバルト色の空、懸垂直下けんすいちょっか、何百米かの切りたったがけの真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草をんでいる。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ぼくらはなおもかわるがわる望遠鏡をとってながめたが、もう太陽は西にかたむいて海波に金蛇きんだがおどれば、蒼茫そうぼうたるかなたの雲のあいだに例の白点が消えてしまった。
少年連盟 (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
ドールとポンタルリエとの間の蒼茫そうぼうたる平野の上の赤いあけぼの眼覚めざめくる田野の光景、大地から上ってくる太陽——パリーの街路とほこりだらけの人家と濃い煤煙ばいえんとの牢獄ろうごくから
判るさ、おいらはこれでも、漢詩の平仄しろくろを並べたことがあらあ、酔うて危欄きらんれば夜色やしょくかすかなり、烟水えんすい蒼茫そうぼうとして舟を見ず、どうだい、今でも韻字の本がありゃ、詩ぐらいは作れるぞ
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
北海道の原野はもう蒼茫そうぼうと暮れ果てて雪もよいの空は暗澹あんたんとして低く垂れ下っていた。
生不動 (新字新仮名) / 橘外男(著)
だんだん暮れかけてきて蒼茫そうぼうたる夕闇の中にハムレットの顔と本の頁だけがくっきりと白く浮きあがり、詩人的な風格をもった憂鬱な横顔にあるかなしかの余光が戯れていました。
ハムレット (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
空の明るさが海へ溶込とけこむようになって、反射する気味が一つもないようになって来るから、水際みずぎわ蒼茫そうぼうと薄暗くて、ただ水際だということが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。
幻談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
立ち尽して、白雲はただ蒼茫そうぼうたる行手の方のみを、暫く見つめていました。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
神のを空に鳴く金鶏きんけいの、つばさ五百里なるを一時にはばたきして、みなぎる雲を下界にひらく大虚の真中まんなかに、ほがらかに浮き出す万古ばんこの雪は、末広になだれて、八州のを圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫そうぼううち
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
天地蒼茫そうぼうとして暮れんとする夏の山路に、蕭然しょうぜんとして白く咲いているこの花をみた時に、わたしは云い知れない寂しさをおぼえた。(大正3・8)
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
笏は、女と同様に広い庭さきに目をさまよわせたが、蒼茫そうぼうとした月明つきあかりを思わせるようにあかるい夜ぞらと庭樹の間にはそれらしい陰影すらなかった。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
初冬の夜はまだ宵ではあったが人の往来も途絶えてしまって福島の城下は物寂しく空には風さえ吹き渡って真冬に間近い星の光は蒼茫そうぼうとしてすさまじい。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
机にむかって筆を持ったまま、もの思いにふけっていた平三郎は、明り障子の蒼茫そうぼうと暗くなっていくのに気づいて、筆をおきながら、しずかに立って窓を明けた。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
見れば先へ行く二人連も同じように道をよける。汽車の走過はしりすぎる響がして、蒼茫そうぼうたる霧の中から堀向ほりむこうの人家の屋根についている広告の電燈がから見えるようになった。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
遅い月が出たばかりで野面のづら蒼茫そうぼうと光っている。微風にびんの毛を吹かせながらかず焦心あせらず歩いて行くものの心の中ではどうしたものかと、策略を巡らしているのであった。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
が、その感じは、月夜のように蒼茫そうぼうとした明るみを持っていた。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「——暗くなる、蒼茫そうぼうと暗くなる」
めおと蝶 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
目にも止まらぬ無双廻わし、月色蒼茫そうぼうたる深山の静寂しじま微塵みじんに破って閃めく息杖。それに掛かって飛礫つぶてのように紛々と飛び散る狼の死骸。見る見るうちに二十三十狼のかばねは重なった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)