仁和寺にんなじ)” の例文
やがての、仁和寺にんなじ行幸みゆきには、心ゆくばかり、きそうて、春の口惜しさをそそぎ、かたがたとともに、かいを叫びたいと存ずる。
仁和寺にんなじの宇多上皇———亭子院ていしいんみかどが平中をお召しになって、「御前に菊を植えたいと思うので、よい菊を献上するように」
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
京都の嵯峨から御室、嵐山から清涼寺大覺寺を經て仁和寺にんなじに到るあたりの青葉若葉の靜けさ匂はしさを何に譬へやう。
仁和寺にんなじ、大覚寺をはじめ、諸門跡もんぜき比丘尼御所びくにごしょ、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物おさすりもの祈祷巻数きとうかんじゅならびに諸献上物もことごとく廃されて
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
皇后宮亮こうごうぐうのすけ経正は、幼い頃、仁和寺にんなじ御室おむろの許で、稚児姿で仕えたことがあった。慌しい都落ちにも経正は五、六騎の供を連れ仁和寺へお別れにやってきた。
ここは京都の郊外の、上嵯峨かみさがへ通う野路である。御室おむろ仁和寺にんなじは北に見え、妙心寺みょうしんじは東に見えている。野路を西へ辿ったならば、太秦うずまさの村へ行けるであろう。
血ぬられた懐刀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
四年前に仁和寺にんなじ御室から叮嚀な封状が届いたのでギョッとしたが、相手が出家ゆえ金の催促でもあるまいと妻子の手前おもむろに開封すると、茶の十徳という事あり
この人は、広沢に住んでいたが、同時に仁和寺にんなじの別当をも兼ねていた。別当というのは、検非違使けびいしの長官をも云うのだが、神社仏寺の事務総長をも云うのである。
大力物語 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
わが身はこの荒磯でくちるとも、せめて筆跡だけでも都の中へ入れさせて下さいと、弟の仁和寺にんなじ上首覚性法親王かくしょうほっしんのうのもとへ、経にそえてつぎの和歌をおくったのである。
たとえば昔仁和寺にんなじの法師のかなえをかぶって舞ったと云う「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。
侏儒の言葉 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
かなえをかぶって失敗した仁和寺にんなじの法師の物語は傑作であるが、現今でも頭に合わぬイズムの鼎をかぶって踊って、見物人をあっと云わせたのはいいが、あとで困ったことになり
徒然草の鑑賞 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
あらぬさまにならせられ仁和寺にんなじの北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも御髪みぐし落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
徳川幕府では、寛政のはじめに、仁和寺にんなじ文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡がきわめて多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
仁和寺にんなじ華厳宗けごんしゅうの名宗で大納言法橋慶雅ほっきょうけいがという僧があった。仁和寺の岡という処に住んでいたから、岡の法橋ともいわれていた。醍醐にも通っていたのか醍醐の法橋ともいわれていた。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それから仁和寺にんなじの前を通って、古い若狭わかさ街道に沿うてさきざきに断続する村里を通り過ぎて次第に深いたにに入ってゆくと、景色はいろいろに変って、高雄の紅葉は少し盛りを過ぎていたが
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その頃仁和寺にんなじ隆暁りゅうぎょう法印と云う出家があった。
現代語訳 方丈記 (新字新仮名) / 鴨長明(著)
その結果、同門の一族協議の末に、仁和寺にんなじのさる高僧に頼んで、光子の御方を尼として、嵯峨野さがのの奥へ行い澄ませようと謀った。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こうして若宮は髪を落し、法師の姿となって仁和寺にんなじ御室おむろの弟子になった。後に東寺とうじの一の長者安井宮の大僧正道尊といわれた人は、実にこの若宮であった。
古今集巻五秋歌の下に、「仁和寺にんなじに菊の花めしける時に、歌そへて奉れと仰せられければよみて奉りける」
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
所詮は長尾ながお僧都そうずは申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主ざす仁和寺にんなじ僧正そうじょうも、現人神あらひとがみのような摩利信乃法師に、きもを御くじかれになったのでございましょう。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
仁和寺にんなじに住んでいた一人の尼が法然の処に来て申すよう
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
『そうそう。仁和寺にんなじへゆく日は、もう幾日いくひもないのであろな……』上皇は、ふと、公卿たちのいかめしげな物議ぶつぎを、あらぬ方へ、わされて——
帰りに御室の仁和寺にんなじの前を通ったので、まだ厚咲きの桜には間があることが分っていたけれども、せめて枝の下にでも休息して芽田楽めでんがくをたべるだけでもと
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
仁和寺にんなじ御室みむろ守覚しゅかく法親王が参内、孔雀経くじゃくきょうの法で祈り、天台座主覚快かくかい法親王も揃って祈祷した。これは変成男子へんじょうなんしの法という秘法で、胎内の女児を男児に変成するものである。
村上むらかみ御門みかど第七の王子、二品中務親王にほんなかつかさしんのう、六代の後胤こういん仁和寺にんなじ法印寛雅ほういんかんがが子、京極きょうごく源大納言雅俊卿みなもとのだいなごんまさとしきょうの孫に生れたのは、こう云う俊寛しゅんかん一人じゃが、あめしたには千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
仁和寺にんなじ慶存けいぞんをたずねて、華厳けごんを聴き、南都の碩学せきがくたちで、彼はといわれるほどな人物には、すすんで、学問を受けた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仁和寺にんなじ御室みむろ守覚しゅかく法親王は孔雀の法、天台座主覚快かくかい法親王は七仏薬師ぶつやくしの法、三井寺の円慶えんけい法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵ごだいこくうぞう、六観音から、普賢延命ふげんえんめいにいたるまで
『そう落胆し給うな。秋にはまた、神泉苑しんせんえんか、仁和寺にんなじか、どこかで、必ず催されよう。どこへ出しても、勝てる名馬。何も、功をあせることはない』
嵯峨さが仁和寺にんなじに、麿まろ親身しんみ阿闍梨あじゃりがわたらせられるほどに、ひとまずそれへおされて、しばらくは天下の風雲ふううんをよそに、世のなりゆきを見ておわせ。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「こうまいっては、嵯峨さがの方向とはまるで反対はんたいではないか。仁和寺にんなじへまいるのであるぞ」
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仁和寺にんなじから嵯峨さがへとかかる平坦へいたんな道は、殊に乾いて、真夏のような草いきれがほこりと共に馬の足もとから燃えてくる。光秀は黙々として、終始、かつも訴えなければ左右とも語らなかった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仁和寺にんなじの十四大廈たいかと、四十九院の堂塔伽藍どうとうがらん御室おむろから衣笠山きぬがさやまの峰や谷へかけて瑤珞ようらく青丹あおにの建築美をつらね、時の文化の力は市塵しじんを離れてまたひとつの聚楽じゅらくをふやしてゆくのだった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また、袈裟けさ良人おっとわたるは、人のむ凶相の名馬を飼って、仁和寺にんなじ行幸みゆき競馬に一瞬の功を夢み、ひとり則清は、沈吟黙想、まじわりつつ、心、交わりきれぬ孤友だった——。(二五・五・七)
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すでに、新院は、仁和寺にんなじにかくれて、剃髪ていはつされ、左大臣頼長は流れ矢にたおれ、日々数十人の公卿や武将が処刑されましたが、なお新院方の将帥、六条為義父子や、右馬助忠正などは捕われていない。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あちらでは、仁和寺にんなじ式部卿宮しきぶきょうのみやだの、右大臣家や九条師輔様などに、なんとか、引立てをうけております。中央では、何といっても、摂関家や親王方などにお近づきを得なければ立身は成りません。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「後家となって、仁和寺にんなじの辺りにかくれておるそうな」
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
きょうも仁和寺にんなじの附近はにぎわっていた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)