痕迹こんせき)” の例文
しかもその修養のうちには、自制とか克己こっきとかいういわゆる漢学者から受けいで、いておのれめた痕迹こんせきがないと云う事を発見した。
長谷川君と余 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その詩人が、五日ばかりで帰ってしまうと、その時もたらして来た結婚談けっこんばなしが、笹村の胸に薄い痕迹こんせきを留めたきりで、下宿はまたもとの寂しさにかえった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
かつて赫々たる勲功を立て、かつて権謀術数の勢力を振った事があるも、もはやその事は過去に属し、今日なんらの痕迹こんせきを留めなくなっても、なお恐るる。
何時晴れるともなく彼女の低気圧も晴れて行った後で、あれほど岸本の心を刺戟しげきした彼女の憂鬱が何処どこにその痕迹こんせきとどめているかと思われるほど、その日はえとした眼付をしていた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰え、文政以後また痕迹こんせきを留めず。
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
故伊能嘉矩氏の言には、陸中遠野地方でも山の頂の草原の間に、路らしいものの痕迹こんせきあるところは、山男の往来に当っていると称して、露宿の人がこれを避けるのが普通だったとの話である。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
けれども両人ふたりが十五六間過ぎて、又話を遣り出した時は、どちらにも、そんな痕迹こんせきは更になかった。最初に口を切ったのは代助であった。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
十九から中間ちゆうかんの六年間と云ふものを、不思議な世界の空気にひたつて、何か特殊ないまはしい痕迹こんせきが顔や挙動に染込しみこんででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが
或売笑婦の話 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰へ、文政以後また痕迹こんせきを留めず。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
結婚後今日こんにちに至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違かんちがい痕迹こんせきで、すでにそこここよごれていた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そうした劃期的かっきてきの悲しみは悲しみとしても、彼は何か小さい自身の人生の大部の痕迹こんせきが、その質素な一室の煙草たばこやにいぶしつくされた天井や柱、所々骨の折れた障子
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼の処置には少しも人工的な痕迹こんせきとどめない、ほとんど自然そのままの利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼女は眼をせて、自分のそばり抜けた。その時自分は彼女のまぶたに涙の宿った痕迹こんせきをたしかに認めたような気がした。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
何らの不自然におちいる痕迹こんせきなしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀のあとおっかけるようにして宅を出た。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
また歩行あるかねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹こんせきを、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹こんせきとも判ぜらるるではないか。全能とも云えようが、無能と評したって差し支えはない。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一致の意味はもとより明暸で、この一致した意識の連続が我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも痕迹こんせきを残すのがいわゆる感化であります。
文芸の哲学的基礎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
しかしあまり自分の好尚におぼれてり過ぎた痕迹こんせきを残したのもないとは云われません。第一編の「硝子ガラス問屋」の中にはその筆があまり濃く出過ぎてはいますまいか。
木下杢太郎『唐草表紙』序 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かれ平凡へいぼん宗助そうすけ言葉ことばのなかから、一種いつしゆ異彩いさいのある過去くわこのぞやう素振そぶりせた。しかしそちらへは宗助そうすけすゝみたがらない痕迹こんせきすこしでもると、すぐはなしてんじた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
言葉を改めて云うと人類発展の痕迹こんせきはみんな一筋道に伸びて来るものだろうかとの疑問であります。
創作家の態度 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私は根来ねごろ茶畠ちゃばたけ竹藪たけやぶ一目ひとめ眺めたかった。しかしその痕迹こんせきはどこにも発見する事ができなかった。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去をのぞくような素振そぶりを見せた。しかしそちらへは宗助が進みたがらない痕迹こんせきが少しでも出ると、すぐ話を転じた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
古代希臘ギリシャの彫刻はいざ知らず、今世仏国きんせいふっこくの画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに露骨あからさまな肉の美を、極端まで描がき尽そうとする痕迹こんせきが、ありありと見えるので
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私の眼にはよくそれがわかっていました。よく解るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ある刹那せつなには彼女は忍耐の権化ごんげのごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹こんせきさえ認められない気高けだかさがひそんでいた。彼女はまゆをひそめる代りに微笑した。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
花袋君は六年前にカッツェンステッヒを翻訳せられて、翻訳の当時は非常に感服せられたが、今日から見ると、作為の痕迹こんせきばかりで、全篇作者のこしらえものに過ぎないとへんせられた。
田山花袋君に答う (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
後から顧みると、自ら進んでその任に当ったと思われる痕迹こんせきもあった。三千代は固より喜んで彼の指導を受けた。三人はかくして、ともえの如くに回転しつつ、月から月へと進んで行った。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
余が寂光院じゃっこういんの門をくぐって得た情緒じょうしょは、浮世を歩む年齢が逆行して父母未生ふもみしょう以前にさかのぼったと思うくらい、古い、物寂ものさびた、憐れの多い、捕えるほどしかとした痕迹こんせきもなきまで、淡く消極的な情緒である。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
端書に満足した僕は、彼の封筒入の書翰しょかんに接し出した時さらにまゆを開いた。というのは、僕の恐れをいだいていた彼の手が、陰欝いんうつな色に巻紙を染めた痕迹こんせきが、そのどこにも見出せなかったからである。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
うまく行かんので所々不自然の痕迹こんせきが見えるのはやむをえない。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「よほど苦心をなすった痕迹こんせきが見えます」
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)