湧上わきあが)” の例文
この、ものしずかなお澄が、あわただしく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段はしごだんを踏立てて、かかる夜陰をはばからぬ、音が静寂間しじま湧上わきあがった。
鷭狩 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
琴の糸のかなで出すあやは、彼女の空想を一ぱいにふくらませ、どの芽から摘んでいいかわからない想いが湧上わきあがるのだ。
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
そこへ天覧という大きなことがかぶさって来ては! そこへまた予感というあやしいことが湧上わきあがっては! 鳴呼ああ、若崎が苦しむのも無理は無い。と思った。
鵞鳥 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
かく其日の授業だけは無事に済した上で、と丑松は湧上わきあがるやうな胸の思をおさながら、三時間目の習字を教へた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
「然うさ、君は唯然う他の耳から理解してるんだ。僕は自分の心に湧上わきあがつて、自分の口から云ふんだ。」
茗荷畠 (新字旧仮名) / 真山青果(著)
むらむらと湧上わきあがる好奇心が、人の悪い尾行慾に打勝った。それに相手はもう帰ろうとしているのだ。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
わめく、トタンに、吉原八町、しんとして、くるわの、の、真中まんなかの底から、ただ一ツ、カラカラと湧上わきあがったような車の音。
吉原新話 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
湧上わきあがった笑い声に気がついて見ると、あにはからんやの有様、舞台監督は狼狽あわて緞帳どんちょうをおろしてしまったが——
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
款待振もてなしぶり田舎饅頭ゐなかまんぢゆう、その黒砂糖のあんの食ひ慣れたのも、可懐なつかしい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地こゝろもちは、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸をいて湧上わきあがるのであつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
大手筋おほてすぢ下切おりきつた濠端ほりばたに——まだ明果あけはてない、うみのやうな、山中さんちゆうはら背後うしろにして——朝虹あさにじうろこしたやうに一方いつぱうたにから湧上わきあがむかぎしなる石垣いしがきごしに、天守てんしゆむかつてわめく……
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
楽しい追憶おもひでの情は、唐人笛の音を聞くと同時に、丑松の胸の中に湧上わきあがつて来た。朦朧おぼろげながら丑松は幼いお妻のおもかげを忘れずに居る。はじめて自分の眼に映つた少女をとめの愛らしさを忘れずに居る。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
自動車がハタと留まって、窓を赤くおおうまで、むくむくと人数にんずが立ちはだかった時も、ひとしく、躑躅の根から湧上わきあがったもののように思われた。五人——その四人は少年である。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
空模樣そらもやうは、そのくせほし晃々きら/\して、澄切すみきつてながら、かぜ尋常じんじやうならずみだれて、時々とき/″\むく/\と古綿ふるわたんだ灰色はひいろくも湧上わきあがる。とぽつりとる。るかとおもふと、さつまたあらびたかぜ吹拂ふきはらふ。
夜釣 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
猫が鳴いた事は、誰の耳にも聞えたが、場合が場合で、一同が言合わせたごとく、その四角な、大きな、真暗まっくらな穴の、はるかな底は、上野天王寺の森の黒雲が灰色の空ににじんで湧上わきあがる、窓を見た。
吉原新話 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上わきあがる、清水に浸したのをつきにかけてずッと押すと、心太ところてんの糸は白魚のごときその手にからんだ。皿にって、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
謀叛人むほんにんが降つて湧いて、まる取詰とりつめたやうな騒動だ。将軍の住居すまいは大奥まで湧上わきあがつた。長袴ながばかますべる、上下かみしも蹴躓けつまずく、茶坊主ちゃぼうずは転ぶ、女中は泣く。追取刀おっとりがたなやり薙刀なぎなた。そのうち騎馬で乗出のりだした。
妖魔の辻占 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)