しず)” の例文
たしかに、そしておそらくは人にものを教えるという生活の影響であろう、あの頃にはなかったしずかなおちついた品がついていた。
日本婦道記:小指 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
女は、その琵琶を弾じて、その音の調子が、その時間が特にもつ深いしずけさにピタリと音が通うのを探っていたわけであります。
日本の美 (新字新仮名) / 中井正一(著)
赤彦の死は、次の気運の促しになるのではあるまいか。いやむしろ、それの暗示の、しずかな姿を示したものと見るべきなのだろう。
歌の円寂する時 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
死——というもの、相知る人間同士の別れというようなものなどが——このしずかな昼の大気につつまれた頭の中でしいんと考える対象になる。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この子が何か答えるときは学者のアラムハラドはどこか非常ひじょうに遠くの方のこおったようにしずかな蒼黒あおぐろい空をかんずるのでした。
しずかなる室内かすかに吐息聞こえて、浪子の唇わずかに動きつ。医は手ずから一匕ひとさじの赤酒を口中に注ぎぬ。長き吐息は再びしずかなる室内に響きて
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
秋の彼岸に近づくと、日の光が地に沁み込むようにしずかになって来る。この花はそのころに一番美しい。彼岸花という名のあるのはそのためである。
曼珠沙華 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
グレー街の三階の部屋へ戻った時には、まだガラス窓に黄色い薄日が漣波さざなみのように慄えていた。広い家の中はカタリともせず真夜中のようにしずかであった。
日蔭の街 (新字新仮名) / 松本泰(著)
そして、室にみなぎるものは、秋のゆうべの、うっすらとしたしずかな光のみであった。
西行の眼 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
然し汽車は釧路くしろまで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものはきゅうって晴々はればれした而してしずかな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤかえではそろ/\めかけて居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
真夜中の刻は、何の音階と思い込んでいたのであり、うし三つのころには、うし三つの頃のしずけさをきわめた調子があたっていたのでした。
日本の美 (新字新仮名) / 中井正一(著)
あまりのしずけさに、床へ泣仆れた産婦の妹の幹子は、たもとを口にいれたまま、むせび出ようとするものを噛みころしていた。鶴子は水のような声で
日本名婦伝:谷干城夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しずかな屋敷には、響く物音もない時が、多かった。この家も世間どおりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあった。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
ここではあらゆるのぞみがみんなきよめられている。ねがいの数はみなしずめられている。重力じゅうりょくたがいされつめたいまるめろのにおいが浮動ふどうするばかりだ。
インドラの網 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
おごそかなほどしずかに、——そこからこちらへ、幾千万里の距離をこちらへ、この国のこの城下町へ、五万二千石の藩政をめぐって、激しく狼火のろしを打ちあげた人々の中へと
初夜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
いま笄町こうがいちょうかたに過ぎし車の音かすかになりて消えたるあとは、しずけさひとしお増さり、ただはるかに響く都城みやこのどよみの、この寂寞せきばくに和して、かのうつつとこの夢と相共に人生の哀歌を奏するのみ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
霜無く、風無く、雲無く、静かなしずかな小春の日。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
まずそのしずけさに愕き、そのもつ弓絃にふれてみて、その音色を静寂の中に聞き入った時、その美しさにさらに驚いたとすれば、この時、彼は
脱出と回帰 (新字新仮名) / 中井正一(著)
ずいぶんしずかなみどりでしょう。風にゆらいでかすかに光っているようです。いかにもその柄が風にしなっているようです。けれどもじつは少しも動いておりません。
チュウリップの幻術 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
つた つたと来て、ふうとち止るけはい。耳をすますと、元のしずかな夜に、——たぎくだる谷のとよみ。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
自分の手でとむらってやった正成の首が彼の瞼をたゆたわせていた。すがすがしい一個の生命は眠りの中で思ってみてもしずかな池の花でも見ているようで気もちがいい。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
枝の裸になったくぬぎの疎林が、はがね色の冷たそうな水面に、しずかな影をおとしている。
おれの女房 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
いろいろの音色をしらべているしずかな渓谷を想像して、その楽しみの自由さについては、昔と今と、どちらが自由かは、ちょっと考えものなのである。
美学入門 (新字新仮名) / 中井正一(著)
先刻さっきから、聞えて居たのかも知れぬ。あまりしずけさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
「いや来ている。いま会わせるよ。……が、まずしずかな景だ。一杯ひとつ、息やすめに飲まないか」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おおきななみをあげたり、じっとしずまったり、だれも誰も見ていないところでいろいろに変ったその巨きな鹹水かんすい継承者けいしょうしゃは、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴたむかしなぎさをうちながら夜昼南へながれるのです。
イギリス海岸 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
われわれが存在の中に在りながら、画布をもってそれを隔て、それにしずかに立ち向うのは、在るものがそのさながらに向ってなす「問い」の設立である。
絵画の不安 (新字新仮名) / 中井正一(著)
あの河内平野に沸いた物狂わしい屍山血河しざんけつがの勝どきとはことなって、しずかな青葉のうちから、よろこぶとも泣くともつかない、ただ高い感動にせまった人々の諸声もろごえが、わあっと、こだまし合って
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私はしばらくその老人ろうじんの、高い咽喉仏のどぼとけのぎくぎくうごくのを、見るともなしに見ていました。何か話しけたいと思いましたが、どうもあんまりむこうがしずかなので、私は少しきゅうくつにも思いました。
雁の童子 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
例えば人を殺すことの目的でできた刀の中に、いつの間にか、いらだったり、血迷った心をしずめるような感じをもつ秩序と線が、現われたりするのである。
美学入門 (新字新仮名) / 中井正一(著)
尊氏はだんだんに、病間の孤独としずかとを欲していた。邸内の祈祷僧はすべて帰してしまい、有隣や侍医たちの手当さえ、とかくうるさげに退しりぞけるふうだった。そして、薬餌やくじ、何から何までを
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かかる句を吐き、瞳を入れて初めて、「責むる者はその地に足をすゑがたく、一歩自然に進む理なり」といい、その世界で初めて、「しずかに見れば、物皆自得す」。
日本の美 (新字新仮名) / 中井正一(著)
例えば、刀、ことに日本刀を見る時、その緊まった、しずけさは、人のこころを寒くするほどである。
美学入門 (新字新仮名) / 中井正一(著)
まさに火宅の三界をのがれて、しずかに白露地に入るの思いがあった。王はうっとりとそれに見入るのであった。ようやくひるがえって他の一方の壁に王は視線を向ける。
うつす (新字新仮名) / 中井正一(著)
自分が自分から隔てられているその隙虚すきまに、あるいは画布はしずかに滑り入るともいえよう。
絵画の不安 (新字新仮名) / 中井正一(著)
否、全山の清澄な空気と無限のしずけさへ向って喚びかける。
うつす (新字新仮名) / 中井正一(著)