流人るにん)” の例文
ここは、越後国の国府こう竹内たけのうちという土地だった。都から遠くながされてきた流人るにん善信の師弟は、もう二年の歳月をここに送っていた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
つねに刀をはいしない巷の流人るにん泰軒居士、例によって敵のつるぎで敵をたおすつもりと見えるが、無剣の剣、できれば、これこそ剣法の奥極かも知れない。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
流人るにんのつれづれさに昔の追想されることが多くなればなるほど、お逢いしたくてならない気ばかりがされます。
源氏物語:12 須磨 (新字新仮名) / 紫式部(著)
私は近年島の流人るにんの生活というものを考えてみているが、俳諧の方ではただ芭蕉翁のみが、二百何十年も以前に早くもこの問題の隠れたる隅々すみずみを知っていた。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
が、流人るにんとは云うものの、おれたちは皆都人みやこびとじゃ。辺土へんどの民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
伊豆国の流人るにん頼朝はわしの見るところ、兵家の棟梁とうりょうたる人物、また天下の源氏を糾合きゅうごうするに足る材じゃ。
ある場合には十日も二十日も風浪にはばめられて、ほとんど流人るにん同様の艱難かんなんめたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋ちひろの浪の底に葬られたこともあったろう。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
先年鬼界きかいが島の流人るにんたちがきょうは都へ上ると聞いた時、私は夢かとよろこんで取るものもとりあえず鳥羽とばまでまいりましたけれども、康頼殿と成経殿の輿こしは帰ったけれども
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
「十手とくさやと縁があるのか」と云って政も思い当ったのだろう、丈夫そうな黄色い歯を見せて笑った、「——そうか、くさやは三宅みやけ島かどっかで、流人るにんが作るって聞いたっけ」
あすなろう (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
三人の流人るにんたちは、海を見下ろす砂丘さきゅうの上で、日向ひなたぼっこをしていた。ぽかぽかとした太陽の光に浴していると、ところどころ破れほころびているあわせを着ていても、少しも寒くはなかった。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
中年に至るまで一介の流人るにんで、田舎豪族の娘へ恋文でもつけるほかに先の希望もなかった頼朝だが、挙兵以来の手腕は水際立ったもので、自分は鎌倉の地を動かず専ら人を手先に戦争をやる
家康 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
そうして置いて、西国か東国の辺鄙へんぴな田舎へ御所領を仰せ出だされ、後々は流人るにんのようにしてしまわれるでござりましょう。そのに及んで何事を思し立たれましても、追い付きは致しませぬぞ。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
或は遠島に流人るにんとなるもの四十餘人。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
流人るにんとなるエワの子供ら
やがて、囚人車めしゅうどぐるまに乗せられて、都から遠国へ差し立てられてゆく流人るにんが毎日あった。京の辻は、日ごとに、それを見物する者で雑鬧ざっとうした。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
芭蕉には島流しの流人るにんの生活を、句にしたものの多いこともちょっと有名であるが、是なども貞享じょうきょう・元禄のこうが、殊に三宅みやけ八丈はちじょうを刑罰に利用した時代であり
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「近頃、平家があずかるところの節刀を取りもどし、伊豆の国の流人るにん前右兵衛佐頼朝さきのうひょうえのすけよりともに授けようぞ」
「憐みのおん母、おん身におん礼をなし奉る。流人るにんとなれるえわの子供、おん身に叫びをなし奉る。あわれこの涙の谷に、柔軟にゅうなんのおん眼をめぐらさせ給え。あんめい。」
おぎん (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
(赦文を読む)重科遠流おんるめんず。早く帰洛きらくの思いをなすべし。このたび中宮ちゅうぐうご産の祈祷きとうによって非常のゆるし行なわる。しかる間、鬼界きかいが島の流人るにん丹波たんばの成経、たいらの康頼を赦免しゃめんす。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
船は、流人るにんたちの姿を見ると、舳を岸の方へ向けて、帆をひたひたと下ろしはじめた。やがて、船は岸から三反とない沖へいかりを投げる。三人は岸辺に立ちながら、声を合せてよろこびの声をあげた。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
流人るにんとなるエワの子供ら
いずれにしても、あさましい世の常の流人るにん送りと、たいした相違もなかったようだ。違いといえばただ、警固の軍兵が多かったことである。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
上使じやうしを斬りたるとがによつて、改めて今鬼界きかいしま流人るにんとなれば、かみ慈悲の筋も立ち、上使の落度おちどいささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船をすすめながら
澄江堂雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
近江国より始めて、美濃、尾張の源氏どもに令旨を伝達して廻るうちに、五月十日には伊豆の北条、ひるが島についた。ここの流人るにん前右兵衛佐頼朝さきのうひょうえのすけよりともに、宮の令旨をとり出して奉った。
『南島雑話』という本は明治より少し前、奄美大島北部の農村に、五年余の流人るにん生活を送った、名越左源太という薩摩藩士の筆記であるが、その中には鼠についてのさまざまの見聞を載せている。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
漁夫二 この流人るにんめが。とっちめてやれ。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
彼女は、頼朝の貴公子的な人品にも心を寄せていたがまた、頼朝の不遇な——配所の流人るにんという境遇にも恋していた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伊豆いずの国には流人るにん前右兵衛佐頼朝さきのうひょうえのすけよりとも常陸ひたちには信太三郎先生義憲しだのさぶろうせんじょうよしのり佐竹冠者昌義さたけのかんじゃまさよし、その子の太郎忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥には故左馬頭義朝さまのかみよしとも末子ばっし九郎冠者義経くろうかんじゃよしつねなど。
流人るにんとなれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。
おぎん (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
春から夏のはじめにかけて、流人るにん親鸞の髪は蓬々ぼうぼうと伸びていた。——何とはなくこの幾月を、彼は病む日が多かった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
保元平治の乱以来、たびたびの合戦に殊勲を立て、太政大臣に昇り、帝の御外戚にまでなることができ、思い残すことはないが、唯一つ、伊豆の流人るにん頼朝の首を挙げなかったことだけが心残りだ。
「——太祖たいそ武徳皇帝いらい、定めおかれた刑法の一として、牢城初入りの流人るにんには、一百の殺威棒をくだすおきてだぞ。——それっ者ども、叩きのめせ」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ですからご管下の牢営にいる済州さいしゅう流人るにんでしょう。すぐ牢営の蔵帳官に、簿けんせよと、お命じなされませ」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
日蓮宗の阿仏坊あぶつぼう日満は、本間入道の帰衣きえふかい僧で、この僧だけは、流人るにん資朝の幽所へ、法談に行くことも、入道から、自由にゆるされていたものだという。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「何だか知らねえが、こちは元々裸の流人るにんだ。万一管営の落度ッてなことにでもなるといけませんから、ちょっくら顔出しのつもりで行って来ましょうや」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
流人るにんとして、伊豆の配所においで遊ばした頃のことを考えてごらんなされませ。私は、静の歌を聞いて、女子おなごはやはり女子よと、思わず眼がうるんで来ました。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
帝との流人るにん暮らしを共にして来たなどは、小宰相にはかなしみだったにはちがいないが、しかし彼女は、隠密おんみつあくそのものを、つらい役目とも罪深いこととも思っていなかった。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「——あたかも流人るにんのようであった」とは、当時の状を目撃した路傍の人の声だった。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それはただの流人るにんにもまさる暗い幽窓の拘束であったろう。が、よく聞く大塔ノ宮の
流人るにんとはいえ、まだまだ多分に貴族的な起居をゆるされている頼朝は、配所の家人けにんに対しても、ずいぶん吾儘わがままなふうがあった。盛綱などは、腹を立てて、何度も渋谷へ逃げ帰った。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこへ思いがけなく、流人るにんの宮と、警固の一行の泊りに会したわけだった。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
裸の一流人るにんに過ぎない身軽な頼朝よりは、位置もあり財宝もあり、妻も子も一族も多い——そしてこれから余生を安穏あんのんに楽しもうとすれば楽しめる——時政のほうが非常に躍起やっきとなって来た。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ふと、不用意でもないように、高氏は自分を頼朝にしていたが、ひるしまの一流人るにんから起って、平家を亡ぼし、この鎌倉に新しい時代を創始した源ノ頼朝こそは、本心、彼の理想像だったのだ。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
流人るにんが、送られて行くぞよ。——夫婦の囚人めしゅうどが』