義朝よしとも)” の例文
そのうちで一ばん上のにいさんの義朝よしともは、頼朝よりとも義経よしつねのおとうさんにたる人で、なかなかつよ大将たいしょうでしたけれど、それよりももっとつよ
鎮西八郎 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
まず、信頼のぶよりが分不相応な高い位をのぞむその増長心をあおりたてて、義朝よしともをその味方につけさせた。あの義朝こそ憎い敵なのだ。
同じ、義家将軍を祖父として、源義朝よしともは、いうまでもなく、彼女の従兄いとこにあたるが、その義朝こそは、平相国清盛へいしょうこくきよもりの憎悪そのものであった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「それでも……常磐御前ときわごぜんをごらんなさいな、義朝よしともにつかえていて、あとで清盛の寵愛ちょうあいを受けて、それでも貞女といわれてるじゃありませんか」
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
治承ちしょうの昔文覚上人もんがくしょうにんが何処の馬の骨だか分らないされこうべを「義朝よしとも髑髏どくろ」と称して右兵衛佐頼朝うひょうえのすけよりともに示した故智になら
その対抗勢力たりし源義朝よしともを斃すと共に、その官位はしきりに昇進して、太政大臣となり藤原氏に倣うて、皇室の外戚となり、政治上の実権を握つたのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
保元の昔からかえりみますれば、祖父為義ためよしあだ、平治の乱では、父義朝よしともかたきだった平家でございます。
雉四郎とやら愚千万、昔保元ほうげんの合戦において、鎮西ちんぜい八郎為朝ためとも公、兄なる義朝よしともに弓は引いたが、兄なるが故に急所を避け、冑の星を射削りたる故事を、さてはご存知無いと見える。
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
つぎに、一一八〇年、源頼朝みなもとのよりともは父義朝よしともの仇をうつために、伊豆に兵を挙げて平家に反抗した。頼朝は、幕府を鎌倉にひらいた。一一八五年、権力者の平家は戦いに破れて、まったく亡びさった。
あるひは一一二がつ椎柴しひしばをおほひて雨露をしのぎ、つひとらはれて此の嶋にはぶられしまで、皆義朝よしともかだましき計策たばかりくるしめられしなり。
まず、八月七日には、関東の伊豆に、頼朝よりとも義朝よしとも滅亡以来、絶えて久しく、このあめしたに見なかった白旗を半島にひるがえす。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これで義朝よしとももへいこうして、だまってしまいました。そしてくやしまぎれに、はげしく味方みかたにさしずをして、めちゃめちゃにかけさせました。
鎮西八郎 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
深山幽谷に入るのではないかと疑われたり、義朝よしとも一行が落武者となって、その辺から現われて来るのではないかと疑われるような気分にもなります。
そもそも頼朝という奴は、あの平治元年十二月、父義朝よしともの謀叛で死罪になるはずだったのだ。池禅尼いけのぜんにの嘆願でようやく死一等を免れて流罪になった奴だ。奴の命を助けたのは誰と思っているのだ。
平家へいけ大将たいしょう清盛きよもりは、源氏げんじにかたきをられることをこわがって、義朝よしとも子供こどもつけしだいころそうとかかりました。
牛若と弁慶 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
ひとたび、山を追われて、今の修羅しゅらの世に出て、あの雄叫おたけびを聞いたなら、おそらく、彼は、源義朝よしとも嫡男ちゃくなんたちと共に、業火ごうかの下に、鉄弓てっきゅうもしごく男となろう
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
御存じの通り、常盤御前は義朝よしともの愛人で、義経の母でございます、それが、わが子を救わんがためとは言いながら、敵将の清盛に身を許してしまいました、あなたはそれを
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
まづ一〇四信頼のぶよりが高きくらゐを望む驕慢おごりの心をさそうて一〇五義朝よしともをかたらはしむ。かの義朝こそにくあたなれ。父の一〇六為義ためよしをはじめ、同胞はらから武士もののべは皆がためにいのちを捨てしに、他一人かれひとりわれに弓をく。
するとあんじょう、そのばん夜中よなかちかくなって、てき義朝よしとも清盛きよもり大将たいしょうにして、どんどん夜討ようちをしかけてました。
鎮西八郎 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
(——六波羅ろくはら殿のお布令ふれぞ。源氏の与党と見たら、捕えて突き出せ。義朝よしともの一族と見かけたら道を通すな)
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
尊氏のこのあわれみは、平清盛が、敵義朝よしともの子、十三歳の頼朝を、源氏のふるさとと知りながら、わざわざ東国の伊豆へ流してやったあの寛大さとよく似ている。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ちょうどいちばんちいさい牛若うしわかまれたばかりのとき、源氏げんじ旗色はたいろわるくなりました。義朝よしともけて、方々ほうぼうげかくれているうちに、家来けらい長田忠致おさだのただむねというものにころされました。
牛若と弁慶 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
義朝よしとも奥方おくがた常盤御前ときわごぜんは、三にん子供こどもれて、大和やまとくに片田舎かたいなかにかくれていました。
牛若と弁慶 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
平治の頃、義朝よしとも父子がかくれたという頃には、この山中にも、四十九院の殿舎があったと古記はつたえているが、いまは野瀬のせとよぶ渓流に臨むそこの小部落をあわせてもそんな戸数はなかった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)