形骸けいがい)” の例文
「あのころの私は、形骸けいがいだけでしたから。——今はこうして炉に向っていても、魂までが、ほこほこぬくもるのを感じてきます」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
読経どきょうの間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸けいがいを、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
形体は残っても、それは抽象せられた生命なき形骸けいがいではないか。特に自然と建築との調和をおもんぱかった古人の注意を無視して、それが如何なる意義を保つであろう。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
彼等の多数は愛のない所にその形骸けいがいだけを続ける。男性はこの習慣に依頼して自己の強権を保護され、女性はまたこの制度の庇護ひごによってその生存を保障される。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
そう——誰か彼らの家中のものも、形骸けいがいと化した主従の関係をつづけていると難じたこともあったのだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
一ツ橋門外の二番御火除ひよけ地の隅に居据いすわっている雪だるまも、一方に曲木まがき家の御用屋敷を折り廻しているので、正月の十五日頃までは満足にその形骸けいがいを保っていたが
半七捕物帳:28 雪達磨 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
太閤こうじ、紹巴没し、豊臣氏いで滅び、徳川氏まつりごとを江戸に執るに及びて、連歌は僅にその形骸けいがいを保つに止まり、しかして松永貞徳の俳諧一派はようやく世に拡まらんとす。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
それは「愛」の形骸けいがいであったかもしれない。しかも彼らは、それ以上のものを知らなかったのだ。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
玄機が女子の形骸けいがいを以て、男子の心情を有していたことは、この詩を見ても推知することが出来る。しかしその形骸が女子であるから、吉士きっしおもうの情がないことはない。
魚玄機 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
しかしかれと対座してそのまなこを見、その言葉をきくと、この例でもなお言い足りないで、さらに悲しい痛ましい命運の秘密が、その形骸けいがいのうちに潜んでいるように思われた。
まぼろし (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
旅に来て孤独を守り形骸けいがいを苦めるほど余計に彼はその自分の矛盾を思い知るように成った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
人形の如き生気なきその形骸けいがいと、まとへる衣服のつかれたる線と、造花の如く堅く動かざる植物との装飾画的配合は、今日こんにちの審美論を以てしては果していくばくの価値あるや否や。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、おりに触れては勧めいざないたれど、既に無形の娯楽を得たり、形骸けいがいを要せずといなみて応ぜず。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
三重子もこう言う鳥のように形骸けいがいだけを残したまま、たましいの美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重子はこの前会った時にはチュウイン・ガムばかりしゃぶっていた。
早春 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ただ形骸けいがいなお存しているのに、精神早く死滅しているというようなことにはなりたくない。愚痴ぐちはこれくらいでやめるが、僕の去年は、ただ貧乏に苦しめられたばかりではなかった。
去年 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
失恋した男の人はよくその恋人に似た似而非えせ女をあさるものだわ。そしてその恋人の幻をその似而非女の形骸けいがいでまやかしていることに自分で気がつかないんだわ。女こそいいつらの皮だわね。
ナポレオンの考えを示す驚くべき草案であり偉大な形骸けいがいであって、相次いで起こった二、三の風雲のためにしだいにわれわれから遠くへ吹き去られこわされてしまったものではあるけれども
虚しい形骸けいがいのみの言葉であった。私は自分の虚しさに寒々とする。虚しい言葉のみ追いかけている空虚な自分に飽き飽きする。私はどこへ行くのだろう。この虚しい、ただ浅ましい一つの影は。
いずこへ (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
道徳の形骸けいがいや、ひられた犧牲ぎせいやらをこばみましたけれども、今わが内心ないしんに新しくき起つて來た道徳的な感情かんじやうをもつて、初めてやみの中にさぐり求めてゐたあるものをつかんだやうな氣がするのです。
冬を迎へようとして (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
格納庫は、まださかんに燃えている。しかしトラスト型の鉄骨と、飛行機の形骸けいがいを、無慚むざんにもさらして、はや、火焔も終りに近かった。老博士は、敵の銃口に身をさらしながら、なおも言葉をつづける。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
形骸けいがいを安きのみなるこの里、我思わがおもひうづむるの里か、吾骨を埋るの里か。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
形骸けいがいを教わって、観念を教わらなかったのである。勿論、科学の課程即ち材料の中から精神をみ取る者は、学生自身でなければならぬ。しかし、幾分教育の制度や方法にも欠陥はあると思われる。
九谷焼 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
今日、大阪の夏祭もやはり行われているのであるが、地車や太鼓の多くは教育資金や衛生組合の費用の不足にあてられ、わずかに祭の形骸けいがいだけが平凡な休日となって残されているに過ぎないのである。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
「——迷える凡愚範宴に、求通ぐつうのみちを教えたまえ。この肉身、この形骸けいがいを、艱苦かんくに打ちくだき給わんもよし。ただ、一道の光と信とを与えたまえ」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸けいがいのために器械の用をなすと一般だからである。
イズムの功過 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰えたれ形骸けいがいはなお保つべし、今にして精神を入れ替えなば再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆ちくするをべきことを保証致候。
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
しかし理法は活ける精神であって死せる形骸けいがいではない。その理法をただ、形式化する時、理法の真意は死んでくる。優れた茶人たちの偉大さは、その理法の自由無碍むげな運用であった。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
滅茶滅茶に叩き毀された無残の形骸けいがいをなまじいに留めているだけに痛々しい。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あはれいたましき形骸けいがいを世に曝す。
偏奇館吟草 (新字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
重治そのものの形骸けいがいは、ここにおいて事の中道に死すとも、決して、むなしき生命を終ったものとはならない。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
永久夫人の前にゆるされない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸けいがいと一般であった。用心深い彼は生還ののぞみしかとしない危地に入り込む勇気をもたなかった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰へたれ、形骸けいがいはなほ保つべし、今にして精神を入れ替へなば、再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆ちくするを得べき事を保証致候。
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
だが美は生命であり、技巧は形骸けいがいに過ぎぬ。技巧に美が依存するなら、古作品の美をどう解き得るであろう。それは画策や奇略の生んだ美ではない。技巧なくば美がないと思うのは錯誤である。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
いったい自分が幼少から見ていた明智十兵衛という者はいずこにせてしまったものかと、いまはその人間の形骸けいがいのみを見つめているような心地しか持てないのであった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
静かなる事さだまって、静かなるうちに、わが一脈いちみゃくの命をたくすると知った時、この大乾坤だいけんこんのいずくにかかよう、わが血潮は、粛々しゅくしゅくと動くにもかかわらず、音なくして寂定裏じゃくじょうり形骸けいがい土木視どぼくしして
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
武田系の属将はほとんど亡散ぼうさんして、その名も形骸けいがいも社会の表面から消されてしまったが、かれのみは、信州上田にって、主家の潰滅後も、信長とうまく結んで、その本領を、無事にもちつづけた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)