しお)” の例文
神田から台所町へ、台所町から亀沢町へうつされて、さいわいしおれなかった木である。また山内豊覚が遺言いげんして五百に贈った石燈籠いしどうろうがある。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その花はまた規則正しくしおれるころになると活けえられるのです。琴も度々たびたびかぎの手に折れ曲がった筋違すじかいへやに運び去られるのです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
築山の草はことごとく金糸線綉墩きんしせんしゅうとんぞくばかりだから、この頃のうそさむにもしおれていない。窓の間には彫花ちょうかかごに、緑色の鸚鵡おうむが飼ってある。
奇遇 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
近い山には夜ごとに淡雪が降り、風につれて、かさこそと枕にひびく楢の葉はうす霜にしおれて、城あとの、樅に交じる下葉はのこらず紅葉した。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
灸はあごをひっ込めて少しふくれたが、直ぐまた黙って箸を持った。彼のわんの中では青い野菜がしおれたまま泣いていた。
赤い着物 (新字新仮名) / 横光利一(著)
これらの女はみな男よりも小股こまたで早足に歩む、そのしおれたまっすぐな体躯からだを薄い小さなショールで飾ってその平たい胸の上でこれをピンで留めている。
糸くず (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
と聞えたればせゆきぬ。と見れば次のは片付きて、畳にちりなく、床花瓶とこはないけに菊一輪、いつさしすてしかしおれたり。
誓之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
後ではいつも少ししおれて『しかしあなたの帰り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。いかにつまらんです。しかし仕方がない』
彼女がさわるとたちまちにしおれた花束のことや、彼女の息の匂いのほかにはなんら明らかな媒介物もなしに、日光のかがやく空気のうちで死んでいった昆虫のことや
一面からしおれている児太郎にたいする日頃の鬱憤うっぷんがいくらかずつ晴れてゆくのを快よく感じた。
お小姓児太郎 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
滑稽に聞える音調を、老人は真面目な顔でしゃべっていた。黄色い、歯糞のついた歯が、しおれた唇の間からのぞき、口臭が、喇叭状ラッパじょうに拡がって、こっちの鼻にまで這入ってきた。
(新字新仮名) / 黒島伝治(著)
僕は伏目になってしおれかえって、ほんの少しばかり口をきいただけであったが、僕の窮厄きゅうやくの暗黒なる地平線を横断する光明の一線は、彼女がつとめて平静をよそおいながら
奮発するさ奮発を、これさこれ藻西さんお前も男じゃ無いか、わししお前なら決して其様にしおれては居無いよ、男の気象きしょうを見せるのは此様な時だろう、何でお前は奮発せぬ
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
……はぎの花は少ししおれましたが、まだ美しゅうございます。お遊びにおいでくださいまし。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ひとり娘を失った上に、今度は鍋久からの仕送りも絶えるのであるから、彼も定めて難儀であろう。所詮しょせんは一種の因縁で、すべての人の不幸であると、勘兵衛はしおれながら話した。
半七捕物帳:49 大阪屋花鳥 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そう思うと同時に、不思議な偶然の向うには、思いがけない幸福でもが、潜んでいるように思われて、先刻までしおれかえっていた美奈子の心は、別人のように晴れやかに、弾んで来た。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
もはや光沢つやも消え、色も衰え、ただ風を待つしおれた花,その風が吹く時は……
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
生々いきいきとして居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎うでられた様にしおれて、明くる日は最早真黒になり、さわればぼろ/\のこなになる。シャンとして居た里芋さといもくきも、ぐっちゃりと腐った様になる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
この有様を見るに見兼みかねて、猛然として演壇に起ったのは、よわい七十に余る老ドクトルである、彼は打ちしおれたる聴衆の精神に、一道の活気を与えんがために、愁いを包んで却って呵々大笑し
太陽系統の滅亡 (新字新仮名) / 木村小舟(著)
彼女はがっかり気落ちのしたしおれた顔つきになって、顔の両側には長い髪の毛が悲しげに垂れさがって、鬱々うつうつとした姿勢で思い沈んでいるところは、昔のにある*罪の女にそっくりだった。
しおれて行く時の色合のような、黙って、息を止めているような、匂いはないけれど、もしこれを求めたら、なまぐさい匂い、それも生々しい血汐ちしおの流れている時分の臭いでなく、微かに、ずっと前に
夜の喜び (新字新仮名) / 小川未明(著)
その間も、あの女のみだりがましい、しおれた容色の厭らしさが、絶えず己をさいなんでいた事は、元よりわざわざ云う必要もない。
袈裟と盛遠 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、しおれたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、あまくだれるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
後の泉を包んだ岩の上には、まだしおれぬ太藺ふといの花が、水甕の破片とともに踏みにじられて残っていた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
それはわずかに数秒間のことであったが、彼女の姿が入り口の下に見えなくなろうとしている時、かの美しい花束がすでに彼女の手のうちでしおれかかっているように見えた。
垣を覆うつたの葉が、長い茎を露わしてしおれ落ちる微かな夕風が渡るだけだった。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
しかも盛夏の赫々かくかくたる烈日の下に、他の草花のしおれ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
我家の園芸 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼ちょうりょう岐阜ぎふ提灯ちょうちんの火も消えがちの風の晩冷ばんれい、涼しさを声にした様なひぐらし朝涼あさすず夕涼ゆうすずらして、日間ひるまは草木も人もぐったりとしおるゝ程の暑さ、昼夜の懸隔けんかくする程
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
心覚えの墓地は、むなしかった。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残っている丈であった。供えた花が、しおれている丈であった。美奈子の心を、寂しい失望が一面にとざしてしまった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
彼は、抜き捨てられた菜ッ葉のように、しおれ、へすばってしまいだした。
(新字新仮名) / 黒島伝治(著)
しおれた花の甘い匂いや仏に捧げた香の香りが、微風に紛れて匂って来た。どこかで小鳥の声がした。木立の茂りに包まれて今までまどかに睡っていたのが、にわかの人声に驚いて夢を破ったに違いない。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ただ夕暮れの疲労の上に、不意に輝いた郷愁に打たれた自分を感じると、彼は再びしおれて来た。泥溝の岸辺で、黒い朽ちかけた杭が、ぼんやりと黒い泡の中から立っていた。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
しかも盛夏の赫々かっかくたる烈日のもとに、他の草花のしおれ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
自分の甥の墓があると誇りに告げて、彼は友達を引張って、甥の墓にまいった。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\ひざまずいて、しおれた月見草の花を折って、墓前の砂にした。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
一番さきの囚徒は真蒼に頭を垂れ、打ちしおれていた。
武装せる市街 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
ああ小径にはしおるる花
奥さんの家出 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
黒豆を薬湯で煮て飲まそうとしているが、今日は山羊もしおれて悲しげである。
「まったく驚きました」と、与七もしおれ返っていた。「御内証でもひどく力を落としまして、まあ死んだものは仕方がないが、せめて一日も早くそのかたきを取ってやりたいと云って居ります」
半七捕物帳:31 張子の虎 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
この日の高田はしおれていた。そして、梶に、昨日きのう憲兵が来ていうには、栖方は発狂しているから彼の云いふらして歩くこと一切を信用しないでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだった。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
垣の鼓子花ひるがおしおれていた。(明治39・8)
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)