舎人とねり)” の例文
旧字:舍人
あえぎ/\車のきわまで辿たどり着くと、雑色ぞうしき舎人とねりたちが手に/\かざす松明たいまつの火のゆらめく中で定国や菅根やその他の人々が力を添え
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「鎌倉殿から拝領なされたとかで、この毛艶けつやはどうじゃ、馬品の美しさよ、などと舎人とねりどもまで誇らしげに自慢しておりました」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
藤吉の家は五百三十石の中老で、父の舎人とねりそば御用を勤めたこともあり、酒も煙草も口にしたことのない、謹直な人であった。
葦は見ていた (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
真淵は此一首を、舎人とねりの作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
女にはどうして勝負が決まるのかも知らぬことであったが、舎人とねりまでがえんな装束をして一所懸命に競技に走りまわるのを見るのはおもしろかった。
源氏物語:25 蛍 (新字新仮名) / 紫式部(著)
青い葉の菖蒲に紫の花が咲いているのを代赭たいしゃ色の着物を着た舎人とねりが持って行く姿があざやかであるとか、月の夜に牛車に乗って行くとそのわだちの下に
実家へ遊びに行って、帰りそびれているのだろうと、召次の舎人とねりに聞きあわせると、実家にお帰りはなかったという。御菜の油屋へも行っていない。
奥の海 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
門跡に事へた候人は、音読してこうにんとも言うたが、元はやはりさむらひゞとで、舎人とねりを模した私設の随身ズヰジンである。
国文学の発生(第二稿) (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
たくましい一頭の馬が金覆輪の鞍をおき、小総こぶさの尻ひもをつけ、白轡しろくつわつけた口は白泡を噛んで舎人とねり数人がつきそっているが、激しい馬をとめることは出来ない。
真先にはむかしながらの巻毛の大仮髪おおかずらをかぶりたる舎人とねり二人、ひきつづいて王妃両陛下、ザックセン、マイニンゲンのよつぎの君夫婦、ワイマル、ショオンベルヒの両公子
文づかい (新字新仮名) / 森鴎外(著)
銀までの小さな色糝粉の舎人とねりのごとくとあしらはれてゐるものではなく、一めんの黙々と白い、巨いなる固まりの、さうしてまことに一も二もなくたゞそれつきりのものだつた。
下町歳事記 (新字旧仮名) / 正岡容(著)
が、さらに著しいのは天智てんじ天皇崩御後における壬申じんしんの乱において、身分の低い舎人とねりや地方官をのみ味方とする天武天皇の軍が、大将軍大貴族の集団たる朝廷方を粉砕したことである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
舎人とねりの小黒が、あわてて駈けだしてきて、手綱をおさへる。そして何か言つた。
春泥:『白鳳』第一部 (新字旧仮名) / 神西清(著)
その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとしていて行くのは、調度掛と舎人とねりとに相違ない。——これが、利仁と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であらう。
芋粥 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
天皇はすべてのことをお聞きになりますと、鳥山とりやまという舎人とねりに向かって
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
そのとき一人の舎人とねりがやつて来て、申しました。
拾うた冠 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
きょうは、姫の誕生日とあって、何がなして遊ぼうぞと、舎人とねりの女房たちをかたろうて、管絃のまねごとしたり、猿楽などを
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
忠三郎は舎人とねりの弟で十五歳、十内は松原十右衛門の子で十六歳だった。だが律が来たためだろう、二人はさがったままで、律が茶をはこんで来た。
お供には、与三兵衛重景よそうびょうえしげかげ石童丸いしどうまる、それに舎人とねり武里たけさとというもの三人で、夜陰にまぎれて舟を出したのである。
近衛府このえふの有名な芸人の舎人とねりで、よく何かの時には源氏について来る男に今朝も「そのこま」などを歌わせたが
源氏物語:18 松風 (新字新仮名) / 紫式部(著)
宮廷におかせられては、御代みよ御代の尊い御方に、近侍した舎人とねりたちが、その御宇ぎょう御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播でんぱした。
山越しの阿弥陀像の画因 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
真先まさきにはむかしながらの巻毛の大仮髪おおかずらをかぶりたる舎人とねり二人、ひきつづいて王妃両陛下、ザックセン、マイニンゲンのよつぎの君夫婦、ワイマル、ショオンベルヒの両公子
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
金右衛門は家老の石川舎人とねりから聞いたが、競作の事は孝之介の一存であって、舎人自身もごく最近に知ったのだという。
扇野 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
車寄くるまよせには、誰彼の参内の諸卿しょけい牛輦くるまが、雑鬧ざっとうしていた。舎人とねりや、牛飼たちが、口ぎたなく、あたりの下に争っている。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三人が飛びこむのを見た舎人とねりの武里も、続いて飛び込もうとするのを、滝口入道は慌てて押えつけた。
夜になって終わるころにはもう何もよく見えなかった。左近衛府さこんえふ舎人とねりたちへは等差をつけていろいろな纏頭てんとうが出された。ずっと深更になってから来賓は退散したのである。
源氏物語:25 蛍 (新字新仮名) / 紫式部(著)
瑞西スウィスにいるうちに、Bernベルン で心臓病になって死んだ。それからクロポトキンだが、あれは Smolenskスモレンスク 公爵の息子に生れて、小さい時は宮中で舎人とねりを勤めていた。
食堂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
甲斐がそう云ったとき、矢崎舎人とねりが的場へはいって来た。甲斐は式部に会釈して、そちらへゆき、舎人は「伊東新左衛門が危篤である」と告げた。
人長ひとおさが、一つのことばうたい終ると舎人とねりらは、段拍子だんびょうしを入れ、たたみ拍子と、楽器をあわせて、まいと楽と歌とが、ようやく一つの早い旋律せんりつを描き出して
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「実は殿には、過ぐる三月十五日の未明、ひそかに屋島を抜け出でられ、高野へ参られ、ご出家の後、熊野詣でをなされ、那智の沖にてご投身なされたと、舎人とねりの武里が申しました」
三日目の夜は大蔵卿おおくらきょうを初めとして、女二の宮の後見に帝のあてておいでになる人々、宮付きの役人に仰せがあって、右大将の前駆の人たち、随身、車役、舎人とねりにまで纏頭てんとうを賜わった。
源氏物語:51 宿り木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
庭では、松原多仲と岩瀬舎人とねりが、足軽をよんで来て、大きな籠へ鶴を入れてしまおうとするらしく、追い廻していた。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
甲斐は駕籠かごで品川へ向かった。供は村山喜兵衛、矢崎舎人とねり、辻村平六、そして成瀬久馬の四人、べつに挾箱はさみばこと献上品を運ぶために、小者が三人ついた。
この場合の贈り物なども法令に定められていてそれを越えたことはできないのであったから、品質や加工を精選してそろえてあった。召次侍めしつぎざむらい舎人とねりなどにもまた過分なものが与えられたのである。
源氏物語:51 宿り木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
舎人とねりとか、牛飼とか申す者は身分の賤しい者でござりますが、それでも、いっぱしの心は持っております。長年大臣殿にお仕え申したご恩は決して忘れてはおりませぬ、何卒、今日一日、最後のお車の牛飼を
その歌詞うたことばを耳に聞いていた時である、武蔵の眼は、太鼓の座に、太鼓をたたいている舎人とねりの手をじっと見ていたが
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「身のまわりからでも、塩沢丹三郎が死に、矢崎舎人とねりが罠をかけられて追放された、そしてこんどは、伊東七十郎が斬罪になり、七十郎の一族まで滅亡した」
「あいや、御岳みたけ舎人とねりたちに申しあげる。狼藉者ろうぜきものは手まえの友人ゆえ、このほうにて取りおさえますから、しばらくの間、そのご神縄を拝借はいしゃくいたします」
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
片倉隼人が甲斐をみちびいていったのは、邸内の家従長屋の一軒で、もと矢崎舎人とねりの住んでいた家であった。
孔明はその朝、常より早めに軍師府へ姿を見せていたが、舎人とねりから噂を聞いて、すぐ漢中王の内殿を訪れた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
甲斐が「席次争い」の騒ぎを知ったのは、矢崎舎人とねりの裁きがあって、十日ほど経ったのちのことであった。
と、蒼惶そうこうとして奥へはいり、社家の雑掌ざっしょう舎人とねりを集めて、何か鳩首して相談をこらしているらしく思われる。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
甲斐は、なにかあれば舎人とねりが知らせに来る、と云い、おくみを寝間へ戻らせ、自分もいっしょにはいった。
むかしで言う舎人とねりのような下級宮内官吏が、蝋燭バサミと黒塗りの鑵のような物を提げて、その一本一本のとぼし残りをふッと吹いては鑵に入れて消して廻る。
美しい日本の歴史 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
舎人とねりと丹三郎がいるのを忘れたのか」と甲斐が云った。「私がはずかしめられれば二人は黙ってはいない、必ず侯に斬ってかかる、もっとも、私がそれを待ってはいないがね」
いや都に舎人とねり奉公していた弱冠のむかしから、心中の怒りを抑えていたか、また、近年の憤怒をつつんで密かに今日の機会を待っていたことかが、察しられる。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
駕籠のそばには、矢崎舎人とねりと成瀬久馬が待っていた。駕籠は二ちょうあり、うしろの駕籠を見ると、伊東七十郎がにやっと笑い顔を見せた。「考え直しましてね」と七十郎は云った。
『お……。さき兵部権大夫時信ひょうぶのごんだゆうときのぶどのかな? ……。おこと、知らぬか』と、僧正はまた、供の舎人とねりにきく。
支度が終るとすぐ、矢崎舎人とねり、辻村平六の二人を供に、宇田川橋の伊達兵部邸へゆき、そこから兵部と共に、乗物で酒井雅楽頭の本邸へいった。酒井邸は千代田城大手の下馬先げばさきにあった。
はじめは、数名の嗚咽おえつだったが、しだいに、廊の左右からきざはしの下にまで、敷波しきなみにヒレ伏していた公卿や舎人とねりにいたるまでの、すべての人影のむせごえになっていた。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)