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望蜀生
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ぼうしよくせい
望蜀生と
余とは、
夢中に
成つて、それを
採集した。
其數實に二
百七十六
本。それを四
箇の
大布呂敷に
包み、二
箇宛を
分けて
持つ
事にした。
何もそれを
目的といふ
譯ではなかつたが、三十六
年の六
月二十三
日であつた。
望蜀生と
共に
陣屋横町を
立出でた。
それから
又調子附いて、
雪中雨中構ひ
無しに
掘つて、三十五
年の十二
月三十
日、
棹尾の
成功としては
望蜀生が、
第貳圖ロの
如き
口唇具を
出した。
朱塗である。
初めて
萱原に
分入つた
時に
居た
活東子は
死んだ。
望蜀生は
如何したのか、
寄りつきも
仕ない。
狹衣子は
役者に
成つて、あの
泥を
渫つた
手でお
白粉を
解きつゝあり。
三十六
年の
夏、
水谷氏が
内の
望蜀生と
共に
採集に
出かけて、
雪ヶ
谷の
圓長寺の
裏の
往還を
掘つて
居た。
道路が
遺跡に
當るので、それをコツ/\
掘りかへして
居たのだ。
大氣焔で
以て
威張り
散らされるので、
品川軍は
散々の
敗北。
文海子が
歸りに
寄つて
呉れといふのも
聽かず、
望蜀生を
連れて、せツせと
歸り
支度した。ぷツぷツ
憤つてゞある。
望蜀生が
完全なる
土器の
蓋を
掘出して
來たので、
急に
行きたい
氣に
成り、三十六
年十二
月十四
日に、
幻花翁、
望蜀生、
玄川子との四
人連、
品川から
汽車で
鶴見、それから一
里弱、
下末吉村へと
行つた。
形勢甚だ
不穩なので、
余は
兎も
角も、
望蜀生を
呼んで、
小聲で。