ひろが)” の例文
旧字:
患者が顔を差寄すれば、綿なす湯気は口にみなぎり、頬をおおい、肩を包み、背にひろがり、腰にまとうて、やがて濛々もうもうとしてただ白気となる。
わか紫 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
僕の眼に広島上空にひらめくく光が見える。光はゆるゆると夢のように悠然ゆうぜんと伸びひろがる。あッと思うと光はさッと速度を増している。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
僅かな休息の時を採ると、直ちにすぐ上にひろがっているなめたような一枚岩の大きな岩場を、縦に走っている岩の節理に導かれながら登って行く。
一ノ倉沢正面の登攀 (新字新仮名) / 小川登喜男(著)
噂のひろがると共に疫が忽ち村中に流行して来る——と、実際村の人は思つてるので、疫其者よりも巡査の方がきらはれる。
赤痢 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
出発前にちょっと仕事の関係で北海道の田舎のる村へ寄ったら、東京は大混乱だという噂がひろがっていて、まるで死地へでも乗り込むように言われた。
流言蜚語 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
暮方くれがたの町のにぎわいが、晴れやかに二人の周囲まわりを取り巻いた。市中一般に、春のもたらした喜びがひろがっていて、それが無意識に人々に感ぜられると見える。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
ヴァランタンが二つの黒い姿を、顕微鏡でひろがしたかのように近よって大きく見出した時に、彼は思いがけないものを発見して、思わずもギョッとした。
最早もう夕暮であった、秋の初旬はじめのことで、まだ浴衣ゆかたを着ていたが、海の方から吹いて来る風は、さすがに肌寒い、少し雨催あめもよいの日で、空には一面に灰色の雲がおおひろがって
白い蝶 (新字新仮名) / 岡田三郎助(著)
政治に目覚めよといえば再び党閥にひろがる形勢を生じ、正しい批判と内容の目を見失おうとしている。
咢堂小論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越してひろがっていた。その圭角をなくした円やかな地図の輪廓は、長閑のどかな雲のように美妙な線を張って歪んでいた。
大衆文芸作法 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
そうして西に傾きかかった太陽は、この小丘のすそ遠くひろがった有明ありあけの入江の上に、長く曲折しつつはるか水平線の両端に消え入る白い砂丘の上に今は力なくその光を投げていた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
彼女と復一とのうわさは湖畔に事実以上にひろがっているので、試験所の界隈へは寄りつけなかった。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
左は五丈乃至ないし六丈もあろうと思われる瀑の太い水柱が、奇妙に抉れた岩の樋からぐいと押し出されるはずみに、二度三度虚空に捩れて、螺旋状にひろがりながら霧の如き飛沫を噴いて
釜沢行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
いつどこからわき出したか、白い雲がかなり早い速さでするするとひろがって、早くも二号艇を半分ばかり包んでしまったのだ。山岸中尉は、すべての注意力をそっちへそそいでいた。
宇宙戦隊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
穏かな冬の日光が障子しょうじ一杯にひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐の火鉢ひばちには銀瓶ぎんびんが眠気を誘う様な音を立ててたぎっていた。夢の様にのどかな冬の温泉場の午後であった。
二癈人 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
だが黄に透く秋風が遠慮なく彼女の皮膚を流れて、彼女のあらゆる花房を吹きちらした。皮膚にはもう少女らしい血行はなかつた。踏み荒された皮膚に感性の不透明さが日ましにひろがつて行つた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
富山へ来ると、例の噂がう一面にひろがっていて、各新聞にも精細の記事が掲げられていた。読んで見るとなるほど大変である。が、彼はの大変に驚くと同時に、この事件について一種の興味をわかした。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
と請求する声は教室の隅から隅までもひろがつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
山峡にそって流れている太田川が、この街の入口のところで分岐すると、分岐の数は更にえ、街は三角洲の上にひろがっている。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
前に寺田先生の墨流しの研究で、水面に墨膜すみまくを作っておいて、その真中まんなかに第二の墨滴ぼくてきを落してやると、その墨が前の墨膜上に一様にひろがって行くという実験がされてある。
南画を描く話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
帰って来て小川のふちに立ちかぶさるようにひろがった塔の森を仰ぐと今までの快活が砂地に潮がひくかのようにすっと消えてしまって、眼の下に急に黒いくまが出来たような気になるのでした。
三角形の恐怖 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ただ船虫の影のひろがったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。……
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
のびのびとなってしまって天井にひろがっているやみの中をいつまでも眺めていた。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
西村の醜くゆがんだ顔丈けが、艶子の眼界一杯にひろがった。年にも似ないで、いやに黒々とした髪の毛が、汗ばんだ顔にたれかかり、短くせまった眉の下に、充血した両眼が、ギラギラと光っていた。
明子は劉子ののろひの輪を抜け出して、今はもう硬い青いポアンなんかではなかつた。そんな窮屈な輪は苦渋な涙と一緒に消えはじけ、彼女はもつとふくよかに空間にひろがつた一つの美しい円であつた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
しんしんと淋しい気持が、かの女の心にひろがって来るのだった。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
小さな器の水ながら、それは無限の水の姿にひろがってゆく。と彼の視野の底に肺を病んで死んで行った一人の友人の姿が浮ぶ。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
梶の幻影は疑いなくそのような気持から忍び込み、ひろがり始めたようだった。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
一所ひとところ、板塀の曲角に、白い蝙蝠こうもりひろがったように、比羅びらが一枚ってあった。
木の子説法 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
水面の世界では、卵が落ちていったんだとは知らない。はじめは目の前に点が現われ、それが見る見る大きくひろがってゆくと見る間に今度はどんどん小さくなりはじめ、やがてぱっと消えてしまった。
新学期行進曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
暫く鎮まっていた向岸の火が、何時いつの間にかまた狂い出した。今度は赤い火の中にどす黒い煙が見え、その黒い塊が猛然とひろがって行き、見る見るうちに焔の熱度が増すようであった。
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
一回五六枚も書いて、まだ推敲すいこうにあらずして横にひろがった時もある。
山らしいものの一つも見えない空は冬でもかんかんとが照りわたり、干乾ひからびたわだちの跡と茫々とした枯草が虚無のようにひろがっていた。殆ど彼も妻と同じ位、その夢に脅えながらもだえることができた。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
と妻の眼には吻と安心らしい翳りがひろがった。
美しき死の岸に (新字新仮名) / 原民喜(著)