抱擁ほうよう)” の例文
朝、目がさめると、途端に私のほうからしかけてゆく抱擁ほうよう。酒場に勤めていた時、まるで浮気をしなかったかどうかを私は知りたい。
野狐 (新字新仮名) / 田中英光(著)
こんなことを繰り返して、互いの心を傷つけあったあとでは、しかし、きまって、力一ぱい、三分間も、つづけて抱擁ほうようしあうのが常でした。
華やかな罪過 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
まるで月の光が彼の身うちの情熱を暖めでもしたように、燃えるような気持で待ちつづけながら、接吻や抱擁ほうようをしきりに想像に描いていた。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
彼女は、丁度嬰児あかんぼが母親のふところに抱かれる時の様な、又は、処女おとめが恋人の抱擁ほうように応じる時の様な、甘い優しさを以て私の椅子に身を沈めます。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、頭蓋骨ずがいこつの空洞の中に作り出している、無限の時間と空間とを抱擁ほうようした、薄暗い静寂であった。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この、はじめて見る惣七に、ぎょっー、としたらしく、お高が、惣七の抱擁ほうようからのがれようと、もがいている時、廊下の跫音あしおとが近づいて来た。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
が、スミスも、いつまでもそう一家の主人として納まっているわけにはゆかない。「商用」が彼をペグラアの抱擁ほうようから引き離して旅に出した。
浴槽の花嫁 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
日が暮れかかっているけれども、庭はまだ明るいので、境界の青桐あおぎり栴檀せんだんの葉の隙間すきまから、西洋映画でよく見るところの抱擁ほうようの場面が見えた。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そして、二人の抱擁ほうよう、二人の投げかけ合っている肉体は、求めるという義務を彼らに忘れさせはしないで、むしろそれを思い出させるのだった。
(新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
ようやく角へ出ると、そこには外国の男と女が抱擁ほうようしている大きなポスターを掲げた新築の映画館が、四つ角の空をネオンサインで燃えたたせている。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
今朝けさ見たと何の変りもないへやの中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁ほうようし始めた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
山名さんめいはソムマといはれてゐるが、これがソムマすなは外輪山がいりんざんといふ外國語がいこくごおこりである。地圖ちずるソムマはヴェスヴィオをなか抱擁ほうようしたかたちをしてゐる。
火山の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
性愛を恥じるな! 公園の噴水の傍のベンチに於ける、人の眼恥じざる清潔の抱擁ほうようと、老教授R氏の閉め切りし閨の中と、その汚濁、果していずれぞや。
HUMAN LOST (新字新仮名) / 太宰治(著)
最期いまわの際にしろ、彼女は、雪之丞に、一目だけでも逢うことが出来、その抱擁ほうようの中に、いのちを落せたのだった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
彼は明雲僧正などを巧みにあやなして、表面そこをも事なく抱擁ほうようして見せてはいるが、実は事ごとに、腹の虫をころしているので治まっているだけだった。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いつでも欲するときにとらえて抱擁ほうようし得る形あるものとしては持たぬ。しかし孤独なものは愛し得ないか。いや孤独なものこそ最も強く深く愛し得るだろう。
男にクラ替えさせられるクララは、俺とこれで別れねばならぬとあって、俺にああした最後の抱擁ほうようを許したのだろう。クララは俺を愛していたのかもしれぬ。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
「もし子供が出来たら……」私はその結果をおそれながら、しかしまた、もう母になったような気がして、そのまだ見ぬ子供を心の中で抱擁ほうようしているのだった。
すくなくともその妻に抱擁ほうようされた家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯一ゆいいつの楽しい安住の故郷であった。
牡鹿おじか獅子ししのそばにねているところや、殺されたものがむくむくと起き上がって、自分を殺したものを抱擁ほうようするところを、ちゃんと自分の眼で見届けたいのだ。
なよたけ 待って! (抱擁ほうようからのがれる)ねえ、文麻呂! 聞えない?……わらべ達があたしを呼んでるんだわ! あたしを見失ったわらべ達が呼んでるんだわ!
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
そして窓のところへ走って行き、窓ガラスに顔を押しつけて、何か夢中に眺めてるようなふうを装った。しかし老人はなんとも言わなかった。彼の方へやって来て抱擁ほうようしてくれた。
彼のむごたらしい抱擁ほうようの下に、死ぬほどに苦しみ悶えながら彼女の純潔が奪われていく瞬間を想像すると、渡瀬はふたたび眩惑げんわくするような欲望の衝動を感じないではいられなかった。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
僕は夫人の両手をって、ひきよせた。恋の抱擁ほうようと見せかけて、夫人をこの危急の際の仮の防禦物ぼうぎょぶつにしなければならなかった。十秒十五秒——。向い合った自動車の窓がスルリと開く。
人造人間殺害事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
硯友社けんゆうしゃ派がある。だが、竜土会はすべての党派を抱擁ほうようしていた。誰が主将というのでもなかったが、どの党派からも喜んで人が出て来た。長谷川天渓氏が来た。川上眉山氏が来た。小栗風葉氏が来た。
芝、麻布 (新字新仮名) / 小山内薫(著)
青天白日の下に抱擁ほうよう握手あくしゅ抃舞べんぶする刹那せつなは来ぬであろうか。
謀叛論(草稿) (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
艶子は、背後に恐るべき抱擁ほうようの気配を感じたらしく、つと立上って、二三歩窓の方に身をかわした。彼女のほお憤激ふんげきの為に赤らみふくれていた。
長い長い心ゆくばかりの抱擁ほうよう、燃えるような接吻せっぷん——そういうもので今日の会見ははじまるだろうと期待していたのだ。
秘密 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
彼等かれらが、勝手放題に、みだらな踊り方をしたり、または木蔭こかげ抱擁ほうようし合っているのをみると、急にさびしく、あなたがしくてたまらなくなるのでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
すなは不完全ふかんぜん外輪山がいりんざんであつて、もしそれが完全かんぜんならば中央ちゆうおうにある圓錐状えんすいじよう火山かざん全部ぜんぶ抱擁ほうようするかたちになるのである。
火山の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
手を握られてもその手ざわりよりは、炬燵こたつの火にぬくまった木の方が、どれ程お蝶の抱擁ほうようをそそるか知れません。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「おい、後生だ、もう一度見せてくれ。後生お願い。………」と、夫は暗い中でスタンドを探ったが、見つからないのであきらめてしまった。………久しぶりの長い抱擁ほうよう。………
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
又も無限の時空を抱擁ほうようしつつ、彼の頭の上にしかかって来るのを、ジリジリと我慢しながら……どこか遠い処で、ケタタマシク吹立ふきたてていた非常汽笛が、次第次第に背後に迫って来るのを
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
打ちちがたい抱擁ほうよう力で人を一地方に結びつけるものは、もっとも粗野な者にももっとも聡明そうめいな者にも共通なる、漠然ばくぜんとしたしかも強い感覚——数世紀以来その土地の一塊であり、その生命に生き
汽車の中には、どうせ一昼夜も乗れば辺鄙へんぴなところでしょうから、妾たちの外には誰も同乗者はいないでしょう。妾たちはきっと抱擁ほうようするでしょう。
千代子は余りの恐さにえがたくなって、幾度か、その場を逃げ出そうと試みたのですが、廣介の物狂わしき抱擁ほうようはいっかな彼女を離すことではありませんでした。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ある国の選手達は、ロングビイチの海水浴場に入りびたり、ビイチ・パラソルのかげに、いかがわしい娘たちと、おおっぴらな抱擁ほうようをしていたのを、見たこともあります。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
(とまれ、景勝の心をとらえ、上杉の実力を抱擁ほうようしておかねばならぬ。われに傾かねば、他日、必ず家康に傾こう。……もし家康の背後に上杉家のもつ地の利と士風の重厚を加えたら?)
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もっとも、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキのかげで、抱擁ほうようし合っていたのを
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
水にしめった洋服を通して、彼のひきしまった筋肉が暖く私を抱擁ほうようしているのが感じられた。諸戸の体臭が、それは決していやな感じのものではなかったが、私の身近かに漂っていた。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
すべてを抱擁ほうようしてゆく大河のそれのように、頼朝の軍は、行く行く投降者を収めたり、迎え出る郷軍などを加えて、十月の六日、鎌倉へ着いた時は、人家もまばらなそこの漁村や農土を
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
どうした訳か、雪江はそれを求めて置きながら、父の抱擁ほうようにおびえて小さく叫んだ。何かしら父の触感がいつもと違ったからだ。その刹那、父が嘗つて見も知らぬ他人みたいに思われたからだ。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
と、強烈な抱擁ほうようを惜しまなかった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)