傷々いたいた)” の例文
そして、生きながらの鬼を自分の心に思う女が、夜半、どんな幻覚を夢うつつに抱くだろうか。傷々いたいたしくもあり、恐ろしくもある。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こんな小さなせっぽちな伯父がこれから一人ぼっちで棺の中に入らなければならないのかと思って、ひどく傷々いたいたしい気がした。
斗南先生 (新字新仮名) / 中島敦(著)
あまり爪尖つまさきに響いたので、はっと思って浮足で飛び退すさった。その時は、ひなうぐいすにじったようにも思った、傷々いたいたしいばかり可憐かれんな声かな。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
声を殺してしゃくり上げるたびごとに、咽喉のどの骨が皮膚の下から傷々いたいたしく現れて、息が詰まりはしないかと思われる程切なげにびくびくとへこんでいる。
母を恋うる記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
その文句は、いきなりに育って来たお増などには、傷々いたいたしく思われるくらい、幼々ういういしさと優しさとをもっていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ほお傷々いたいたしくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与えるくぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
女の身で兎も角も密旨の為に働き「何の様な目に逢って此の世を去るかも知れぬ」とまで覚悟して居るとは傷々いたいたしいと云っても好い、助けられる者なら助けて遣り度い、と云って事情も知らず
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
軒かたむいたごとから逃げ惑って行ったらしい嬰児あかごのボロれやら食器の破片などが、そこらに落ちているのも傷々いたいたしく目にみて
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
二人の患者が死にひんしている。一人は腹部をやられた者。顔をゆがめつつ、しかし沈黙せる・傷々いたいたしき人事不省。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷々いたいたしい、うしろから苦もなくすらりとかぶせたので、洋服の上にこの広袖どてらで、長火鉢の前に胡坐あぐらしたが、大黒屋惣六そうろくなるもの
註文帳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
が、寒さにいじめつけられて赤くふやけている傷々いたいたしいその指にも、日増しにびる歳頃の発育の力をおさえきれないものがあって、一種いじらしい美しさが感じられた。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
あの傷々いたいたしい失意のひとみが涙でいっぱいになって物も得いわずに打ち伏すかと思うと、万野は帰るにも帰れない心地がするのだった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
よじって伸ばす白い咽喉のどが、傷々いたいたしく伸びて、蒼褪あおざめる頬の色が見る見るうちに、その咽喉へくまを薄くにじませて、身悶みもだえをするたびに、踏処ふみどころのない、つぼまった蹴出けだしが乱れました。
甲乙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
濃い紺色のジョウゼットの下に肩胛骨けんこうこつの透いている、傷々いたいたしいほどせた、骨細な肩や腕の、ぞうっと寒気を催させるはだの色の白さを見ると、にわかに汗が引っ込むような心地もして
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それが誤解ごかいとわかりきった今なるにせよ、信長自身の口からゆるされるまでは、傷々いたいたしくとも戸板のまま地上に寝かしておくしかなかった。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
京女と云っても雪子のように骨細な傷々いたいたしい感じはなかった。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
やがて賜酒ししゅが終ると、正行はすぐ退がった。しかしその後ろ姿もどこか弱々と見えて、みかどはひそかに、顕家あきいえには似ぬ者と、傷々いたいたしく思われた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし、嘆願の事はいくたびも頼朝に通じてあったし、傷々いたいたしい姿を見、泣きじゃくる声を聞いただけでも、十分、老母の心は、頼朝には分っていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、母は傷々いたいたしくながめたが、なまなかかばい立てすると、かえって、筑阿弥の荒い手や言葉が、日吉へ苛酷かこくに当るので、見て見ぬ振りをしているのだった。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして余りに傷々いたいたしい瞼をちらと見たので、彼はあとへかれる心と反対に、馬腹へ軽い鞭を当ててしまった。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じっと見れば、それなん宋江そうこうその人にちがいない。ここ久しく日の目も見ず、蒼白のおもてびんのほつれ毛も傷々いたいたしく、暗闇の中でも肩のやつれがわかるほどだった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
余りにも、傷々いたいたしく思われるのは、玉日であった。被衣かずきしてさえ若い新妻は昼間の陽の下を歩み得ないほどなのが、そのころの深窓に育った佳人の慣わしであるものを。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十川村の郷士の息子だという安太郎が、いつも彼女を傷々いたいたしがって、湯沸わかへ慰めに来た。
(新字新仮名) / 吉川英治(著)
その中に、馬良の弟、馬謖ばしょくもいた。瞼を紅く泣きはらした馬謖のすがたは傷々いたいたしく見えた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それに、御車は捨ててもうないので、帝は裸足はだしのままお歩きになるしかなかった。馴れないお徒歩ひろいなので、たちまち足の皮膚はやぶれて血をにじませ、見るだに傷々いたいたしいお姿である。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのほかは旗本から平侍ひらざむらいや足軽までを合わせても、千人には足りなかった。しかもおびただしい数は、簾中以下上﨟じょうろうたちの塗駕ぬりかご輿こしや、被衣姿かずきすがた徒歩かち、駒の背などの傷々いたいたしいものの数であった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
内匠頭の死後から今日迄、およそ二十一ヵ月——その間にこの人のおもてからは、あらゆる希望が消えていた。水々しかったあの頃の麗姿れいしから思うと、頬や肩の肉さえ傷々いたいたしいほどぎとられていた。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
春の樹洩こもきぬを洗う彼女の白い手に傷々いたいたしくなくこぼれている。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「あの細いお体に、具足を着けるだけでも、傷々いたいたしい程なのに」
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
傷々いたいたしげに、眉をしかめて、武蔵の肌の奥をのぞこうとすると
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)