筆硯ひっけん)” の例文
上には、筆硯ひっけんは片隅で、真鍮しんちゅうの細長い卦算けいさんが二、三本と、合匙ごうひといいますか、薬を量る金属の杓子形しゃくしがたのが大小幾本もありました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
昨夜二更一匹の狗子くし窓下に来ってしきりに哀啼あいていす。筆硯ひっけんの妨げらるるをにくんで窓を開きみれば、一望月光裡いちぼうげっこうりにあり。寒威惨かんいさんとしてゆるがず。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
まわりには巻物や、紙や、筆硯ひっけんなどがとりひろげてあり、侍(それは谷町の安倍冲左衛門であった)がなにか書き写しているようであった。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
古座谷はかつて最高学府に学び、上海シャンハイにも遊び、筆硯ひっけんを以って生活をしたこともある人物で、当時は土佐堀の某所でささやかな印刷業を営んでいた……。
勧善懲悪 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
今や天高く秋深くまさに読書の好時節なりといえども、著者近来しきりに疲労を覚え、すこぶる筆硯ひっけんにものうし。
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
机は白木しらき三宝さんぼうを大きくしたくらいな単簡たんかんなもので、インキつぼと粗末な筆硯ひっけんのほかには何物をもせておらぬ。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
明窓浄几めいそうじょうき一炷しゅノ香一へいノ花。筆硯ひっけん紙墨ハかならずそなフ。茗ハ甚シク精ナラザルモマタ以テ神ヲ澄スニ足リ、菓ハ甚シク美ナラザルモマタ以テ茗ヲ下スニ足ルベシ。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
後半生のくさぐさについてはひと息吐く暇もなく引き続いて筆硯ひっけんを新に、書き上げたい心算である。
小説 円朝 あとがき (新字新仮名) / 正岡容(著)
うらむらくは其の叙するところ、けだいまだ十の三四をおわるに及ばずして、筆硯ひっけん空しく曲亭の浄几じょうきのこりて、主人既にきて白玉楼はくぎょくろうとなり、鹿鳴草舎はぎのやおきなこれをげるも
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
『日本』へ俳句寄稿に相成候あいなりそうろう諸君へ申上候もうしあげそうろう筆硯ひっけん益〻御清適ごせいてきの結果として小生の枕辺ちんぺん玉稿ぎょっこうの山を築きこの冬も大約一万句に達しそうろうこと誠に御出精ごしゅっせいの次第とかつ喜びかつたてまつり候。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
その後は大分御無沙汰御海恕可被下くださるべく候。時下窮陰之候筆硯ひっけんいよいよ御清穆せいぼく奉賀候。
漱石氏と私 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
筆硯ひっけんを借りてその包紙の余白に、貧病の薬いただく雪あかり、と書きつけて興を添え、酒盃しゅはいの献酬もさかんになり、小判は一まわりして主人の膝許ひざもとにかえった頃に、年長者の山崎はすわり直し
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
しこうしてその利益はすなわち木村軍艦奉行ぐんかんぶぎょう知遇ちぐうたまものにして、ついわするべからざるところのものなり。芥舟先生は少小より文思ぶんしみ、また経世けいせいしきあり。常に筆硯ひっけんを友としておいの到るを知らず。
僧正は一代の高徳、今や涅槃ねはんの境に入って、た世塵の来り触るるを許さないのであるが、余りにうるさく勧められるので、遂に筆硯ひっけんを命じて一書を作り、これを衆弟子に授けて入寂にゅうじゃくした。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
とて、ただ筆硯ひっけんに不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず
八犬伝談余 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
他日筆硯ひっけんを新たにして再び稿を続ける折もあるであろう。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
彼は起って、自身、筆硯ひっけんを取りに行った。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
筆硯ひっけんに命をむる道也どうや先生は、ただ人生の一大事いちだいじ因縁いんねんちゃくして、かえりみるのいとまなきがゆえに、暮るる秋の寒きを知らず、虫の音の細るを知らず、世の人のわれにつれなきを知らず
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
今もその写経をしていたとみえ、燭台しょくだいの脇には筆硯ひっけんや紙などの載った経机が寄せてあった。兄もいっしょに、松尾がそこへ坐ると、父はちょっと具合のわるそうな口調で云いだした。
石ころ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾しゅくあに苦しめられて筆硯ひっけんを廃することもたびたびである。
正宗谷崎両氏の批評に答う (新字新仮名) / 永井荷風(著)
欧州の天地、即今戦報のもたらす以外、別に這箇しゃこの大戦争あるを看過されずんば、洪図こうとを固むるは諸卿しょけいわざ、この物語の著者のごときはすなわち筆硯ひっけんを焼き、退いて書癡しょちに安んずるを得ん。
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
京都清遊の後、居士はたちまち筆硯ひっけん鞅掌おうしょうする忙裡ぼうりの人となった。けれどもかんを得れば旅行をした。「旅の旅の旅」という紀行文となって『日本』紙上に現われた旅行はその最初のものであった。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
寂心と同じように筆硯ひっけんの業には心を寄せた人であった。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
出ぬことにしているので筆硯ひっけん多忙と称して小袖こそでの一枚になる時節を待った。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
時に先生筆硯ひっけんはなはだ多忙なりしがため余に題材を口授こうじゅにわかに短篇一章を作らしむ。この作『夕蝉ゆうせみ』と題せられふたたび合作の署名にて同誌第一号に掲げられぬ。『伽羅文庫』は二号を出すに及ばずして廃刊しき。
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)