眸子ひとみ)” の例文
何事か頭にひらめいて来たらしい。その眸子ひとみじっと、眼下に突出している岬のあたりをみつめ、右手の指は鉄の柵をせわしく叩きだした。
廃灯台の怪鳥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
今まで海に面していた眸子ひとみを転ずると、峠へ出るまでは見えなかった普賢ふけん峻峰しゅんぽうが、突如として道の行手を遮って、目の前に表われる。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子ひとみの澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
彼らは自分の坐っている所から、ことさらな方向に眸子ひとみを転ずる事なしに、自然と見られるように都合の好い地位に坐っていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「幾らでも見ててあげるわ」と言つて妻は眸子ひとみを彼の眼に凝つと据ゑたが、直ぐへんに苦笑し、目叩またゝき
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
中学の校帽凛々りゝしく戴ける後姿見送りたる篠田は、やがて眸子ひとみを昨日おのが造れる新紙の上になつかしげに転じて「労働者の位地と責任」と題せる論文にとわたり目を走らせつ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
自分はまさに起ち上りてまたさらに運だめし(ただし銃猟の事で)をしようとして、フト端然と坐している人の姿を認めた。眸子ひとみを定めてよく見れば、それは農夫の娘らしい少女であッた。
あいびき (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
目覚ますすべなき大いなる眸子ひとみをもてる盲目めくらの女よ
栄二は頭を左右に振り、眸子ひとみをさだめておすえの表情を見た。それからふいと立ちあがり、仕事場から出ていって、表の戸閉りをした。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
寒い戸外の空気に冷えたそのほおはいつもより蒼白あおじろく自分の眸子ひとみを射た。不断からさむしい片靨かたえくぼさえ平生つねとは違った意味の淋しさを消える瞬間にちらちらと動かした。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「ここから走っていって、あの竹を二つにり割るのだ、拙者がやってみせるから見ろ」みんな眸子ひとみを凝らして見まもっている。
薯粥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
まゆとそれから濃い眸子ひとみ、それが眼に浮ぶと、蒼白あおしろい額や頬は、磁石じしゃくに吸いつけられる鉄片てっぺんの速度で、すぐその周囲まわりに反映した。彼女の幻影は何遍も打ちくずされた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「こういうことができるか」と彼は云った、「こういうふうに両方の眸子ひとみを寄せておいて、猫蜂ねこはちとんぼきりぎりすの親方って、云うんだ」
改訂御定法 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
正吉の重みで梯子段はしごだんきしむと、お美津みつ悪戯いたずららしく上眼でにらんだ。——十六の乙女の眸子ひとみは、そのときあやしい光を帯びていた。
お美津簪 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
しだいにやつれてはゆくが面ざしはいつまでもえて美しく、いつもみはっているような大きな眸子ひとみも澄みとおるほどしずかな光を湛えていた。
日本婦道記:おもかげ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そして唇の端からよだれが垂れ、両方の眼の眸子ひとみがつりあがった。保馬は声をあげて、走り寄って、倒れかかるいしの躯を支えた。
いしが奢る (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
眠りからさめたというより、眠っていなかった者が眼をあいたような感じで、そのまま眸子ひとみも動かさずに伯父をみつめていた。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
きわめて僅かな時間に、眼のまわりにかさがあらわれ、それが顔つきぜんたいに深い陰翳いんえいを与えた。眸子ひとみは大きくなり、きびしい光を帯びて耀かがやいた。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
不謹慎に三角巾の具合を直しながらくる、すると立籠めた灰煙のなかで彼の眸子ひとみが獣のようにきらめき、なにかを床へ取落す重苦しい物音がする。
蛮人 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そのときは眼に光を当ててみると、眸子ひとみに不規則な震顫しんせんが認められるという。それでしらべてみたのだが、十兵衛にはそれがなかった、と云った。
赤ひげ診療譚:06 鶯ばか (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
すると、眸子ひとみが水で洗ったように澄みとおり、わたくしに異存はないという意味を、はっきり答えるかのようにみえた。
そしてうわめづかいに見あげた眸子ひとみの、きらきらするような光りとは、隼人を強くとらえ、手繰りよせるように思えた。
ちくしょう谷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
……母はきみの悪いほど蒼ざめたむくんだような顔で、苦しそうにあえぎ、菊千代を見ると、眸子ひとみの濁った眼をみひらき、こちらへ手をさし伸ばした。
菊千代抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
信三は惹きつけられるように、昌子の顔を見、その言葉に聞きいった、昌子はその眼を燃えるような眸子ひとみでみつめながら、なかば夢中でこう続けた。
四年間 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
切れ長のつぶらな眸子ひとみ、漆黒の余るような髪を武家風に結いあげた二十あまりの、眼覚めるように美しい女である。
嫁取り二代記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
苦痛にひきゆがんだ声つきと眸子ひとみのつりあがったような烈しい眼の色に、おせんはわれ知らずうしろへ身をずらせた。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そして新左衛門は、焦点の狂った眼をあげ、そこに甲斐がいることをたしかめるかのように、じっと眸子ひとみを凝らした。
改めてじっと眸子ひとみを据え、なにかふしぎな物躰でも発見したかのように、勝子と増田をつくづくと見まもった。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
膚は脂肪がのっていよいよつややかに、しっとりと軟らかい弾力を、帯びてきた。自信とおちつきを加えた眸子ひとみは、ときに驚くほどなまめかしい動きかたをする。
つばくろ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
振り返ってみるとおそので、菊ちゃんは寝ちゃったよ、と云いながら喜兵衛の姿を認めて、眸子ひとみを凝らした。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
大きな、なにかの宝玉のような眸子ひとみと、柔らかくしめった、彫刻的な口元とを、さらにひきたてるかのような、上唇の脇の黒子ほくろが、かなりつよく眼を惹いた。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
去定に促されて登もた。登は竹造に提灯ちょうちん用の蝋燭ろうそくを出させ、それに火をつけて十兵衛の眸子ひとみをしらべた。
赤ひげ診療譚:06 鶯ばか (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
相手の言葉をしっかり聞きとろうとするためのようだが、汚れのない澄みとおった眸子ひとみを大きくみはってまたたきもせずに見つめられると、なにやらおもはゆくなって
日本婦道記:墨丸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そして帰って来たとき、安土竜太郎も米山八左衛門も、深い奇妙な光を両の眸子ひとみに湛えていた。
溜息の部屋 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
石のように冷たく硬直した頭、白く乾き、かたくくいしばった口もと、そして頬へみだれかかっていた二筋三筋の髪、そういうものがいきなり由紀の眸子ひとみみついてきた。
日本婦道記:藪の蔭 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ぱちぱちと三つばかり目叩またたきをした、利巧そうな、はっきりした眼つきで、目叩きをした瞬間なにか眸子ひとみがものを云ったようにみえた、彼はどきっとして急ぎ足に通り過ぎた。
ひやめし物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
唇もとのりんとして力のある線、人を見るときの眸子ひとみの射止めるような光りは、兄と違って熱狂することを知らない、しずかな、むしろ冷たくさえある理知の質をあらわしている。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
甲斐の眼はするどくなり、大和守の表情の、どんな変化もみのがすまいとするように、じっと眸子ひとみを凝らしていた。——大和守の顔はゆっくりと硬ばってゆき、下唇がさがった。
それにもかかわらず堅くふくれた嫂の胸が、光をたたえた眸子ひとみが、張りきった丸味のある肩が、豊かな腰が、一時にぐんとのしかかってくるような幻暈めまいを感じて正三は低くあえいだ。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「すぐいって来る」右衛門の両方の眼の眸子ひとみが右は右へ左は左へと乖離かいり運動を起こした、「——というと、つまり、その、……おまえは、二時間以上も経つのに、まだ、その、うう」
思い違い物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
おしのが同じことを繰返して云うと、喜兵衛の眸子ひとみがつりあがって白眼になった。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
本能的に防禦のかたちに振り向けた……つり上った眸子ひとみと、まくれた唇のあいだから剥きだしになっている歯と、暴々しく喘ぐ息と……伊兵衛は路上の雪の仄明りにそれを見やりながら
夜明けの辻 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
……年はまだ十七八であろう、肉付のきりっと緊った、どちらかというと小柄な躯で、熟れた葡萄のように艶々つやつやしい表情の多い眸子ひとみと、笑うと笑窪の出る豊かな双頬がたいそう眼をいた。
内蔵允留守 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
くつろいだ勘太夫がお笛を相手に、いいきげんで浅酌低唱をたのしんでいる、強いられて二三杯めたお笛も、眼蓋をほんのりと染め眸子ひとみをうるませて、たいそうなまめかしい姿をしていた。
明暗嫁問答 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
どろんと濁った眸子ひとみ、緊りのなくなった、よだれで濡れて半ば開いている唇、そして時おり歯の間からもれる無意味な、唖者あしゃに特有の喉音こうおんなど、すべてが医者の言葉を裏付けているようにみえた。
日本婦道記:二十三年 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「ちょっと待ってくれ、いや」弥兵衛は不決断に首を振りじっと眸子ひとみを凝らしていて、やがて玄四郎を見た、「わからない、おれはとうていむりだと思うが、むりでもいちおう当ってみよう」
眸子ひとみというものは、だいたいとして同時に同一方向へ動くはずである。
似而非物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
疑いは疑いを生んで、いよいよ寒泉の許へ書面を出そうかと思いはじめた、——十一月十九日のことである、家譜を調べて慶長十五年七月の項にかかった時、何を読当てたか急に眸子ひとみを輝かして
入婿十万両 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
半眼にした眸子ひとみでじっと壁面をみつめたまま身動きもせず坐っていた。
松風の門 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
眉も額の生えぎわもりこんであった。きめのこまかなひき緊った肌は、不断のていれのよさを思わせる、唇は乾いていた。眼は大きく眸子ひとみは澄んでいるが、人をそそるような悩ましげな光を帯びていた。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)