疑懼ぎく)” の例文
なぜと云ふに、僕の願にジユリエツトが応ぜないかも知れないと云ふ疑懼ぎくは、どの点から見ても無いからである。此女には夫がある。
不可説 (新字旧仮名) / アンリ・ド・レニエ(著)
矢島優善やすよしは前年の暮に失踪しっそうして、渋江氏では疑懼ぎくの間に年を送った。この年一月いちげつ二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
の木彫に出会って、これが自分で捌き得る人物だろうかと、おおい疑懼ぎくの念を抱かざるを得なくなり、又今更に艱苦かんくにぶつかったのであった。
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
クリストフは疑懼ぎくしなかった。彼女にたいしてごく懇切であり、あまりに懇切すぎた。大きなぼっちゃんとして甘ったれていた。
私は山岸さんの判定を、素直に全部信じる事が出来なかったのである。「どうかなあ」という疑懼ぎくが、心の隅に残っていた。
散華 (新字新仮名) / 太宰治(著)
「そんな阿呆なことが、……」と伯父は打ち消したが、其時の態度や言葉の調子では、彼が或る疑懼ぎくを心に感じて居ることが明らかであつた。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼ぎくに交って、とうとうわたくしをあの場から逃げさせてしまいました。
田舎 (新字新仮名) / マルセル・プレヴォー(著)
平次を先に、お夏を中に挟んで、ガラッ八が殿しんがりを勤め、丸屋の、不安と疑懼ぎくとを包む空気の中へ入って行きました。
諺にも「疑心暗鬼を生ず」といえるがごとく、多くの災難、不幸は、これを疑懼ぎくするより起こるに相違ありませぬ。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
疑懼ぎくし、躊躇するところは絶対にない。本格、変格の名にこだわって、前後を見まわす必要は断じてない。
甲賀三郎氏に答う (新字新仮名) / 夢野久作(著)
情夫、情婦、私生児、窃盗嫌疑、堕胎疑懼ぎく等、凡そ善良な人間に関係のある言葉ではない。私がとく子を愛したばかりに、このように彼女を傷つけたことになる。
澪標 (新字新仮名) / 外村繁(著)
みんなにまた口汚くちぎたなくいわれる疑懼ぎくと、ひとつは日頃ひごろ嘲弄ちょうろうされる復讐ふくしゅうの気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジをぬす
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
この不安と疑懼ぎくの念は道徳的反省の後に起るのではなくて、むしろ生理的にるものと見ねばならない。
噂ばなし (新字新仮名) / 永井荷風(著)
我が「サン、カルロ」の劇場に登るべき日は明日あすとなりぬ。これを待つ疑懼ぎくの情と、さきの夜戀の敵に出逢ひたる驚愕の念とは我をして暫くも安んずること能はざらしむ。
私だけはウナの裏にまたダッシュのウナがありはしないかと邪推し、嫉妬し、疑懼ぎくし……その我と我からかもす邪推や危惧きぐや、嫉妬の念に堪えやらずして、自分と自分からめった
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
境涯が境涯だから人にもいやしめられ侮られているが、世間を呑込のみこんで少しも疑懼ぎくしない気象と、人情の機微に通ずる貴い同情と——女学校の教育では決して得られないものを持ってる。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
私は宝蔵殿の見世物式陳列ぶりをみて内心疑懼ぎくたるものがあった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
しかしこの時、彼の心中には、全く種類を異にしたある別の疑懼ぎくの念が蠢動しゅんどうしていた。しかも自分ではっきりとそれを把握することができないために、それはいっそう悩ましく感ぜられるのであった。
彼等の表情には、犯罪者の疑懼ぎくなどは影さえも差さなかった。
恐ろしき錯誤 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
疑懼ぎくのカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。
古典風 (新字新仮名) / 太宰治(著)
いつも疑懼ぎくの念をいだいてるらしかったが、時によると急に神経のくつろぎを見せ、しかもある残忍さを隠しもっていた。
我軍わがぐんは再戦して再挫さいざし、猛将多く亡びて、衆心疑懼ぎくす。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功ことごとすたりて、不振の形勢あらたあらわれんとす。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
中は仏間と居間と台所だけの簡素な造りで、そこに大きな疑懼ぎく背負しょわされて、閉じ込められた六人の男女は、更ける夜とともに不安を募らせるばかりです。
故をもって、下流社会はいうに及ばず、中等以上の人々まで大いに疑懼ぎくの念を抱き、百方これを避けんとするものがるるに道なく、ついに迷信の淵に沈むに至る。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
甥の奴が田舎から出て来よつたよつて、飯焚きでもさして食はして置いてやれ、そんな風に思つて居るのではないかと、私は時に疑懼ぎくの念に襲はれることがあつた。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
渋江氏では、もしそのこいれなかったら、あるいは両家の間に事端じたんを生じはすまいかとおもんぱかった。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この疑懼ぎくの犠牲になったようなものである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
けふの樂はいかに我憂を拂ひし。未だ聽かざりし時の我疑懼ぎく、鬱悶、苦惱は幾何いくばくなりし。
あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼ぎくに伴う熱烈な欲望が今一度味われはすまいか。本当にあのマドレエヌが昔のままで少しも変らずにいてくれればいい。
田舎 (新字新仮名) / マルセル・プレヴォー(著)
新人よ、疑懼ぎくし躊躇する事は絶対にない。
探偵小説の真使命 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌ちゃえんに赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の疑懼ぎくの念をいだいたのも無理ならぬことであった。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
谷中やなかに蓮華往生のあった少し前のこと、疑うことを知らない江戸の人達は、ささやかな天霊様の祈祷所を、瞬く間に三倍五倍に拡張させ、疑懼ぎくと好奇まで手伝って
かつて狐火きつねび天狗火てんぐびや幽霊火のことは聞いておれども、今見たる火はそのようの怪火かいかではなかろうと知りつつ、なんとなく疑懼ぎくの念が起こり、ことに真っ黒の物の見ゆるのは
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
けれどもただ、金のある結婚にたいするクリストフの不当なやや滑稽こっけい疑懼ぎくには、同感できなかった。富は魂を滅ぼすという考えは、クリストフの頭に深く根をおろしていた。
大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼ぎくが潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。
高瀬舟 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
今の疑懼ぎくの心持は昔マドレエヌの家の小さい客間で、女主人の出て来るのを待ち受けた時と同じではないか。人間の記憶は全く意志の掣肘せいちゅうを受けずに古い閲歴を堅固に保存して置くものである。
田舎 (新字新仮名) / マルセル・プレヴォー(著)
妹のおふみと内弟子が三人、下女が一人、ける夜を寝もやらず、不安と疑懼ぎくとにふるえていたのです。
瞬く間に踏潰ふみつぶされて終うか、くとも城中疑懼ぎくの心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
思慮のある男には疑懼ぎくいだかしむる程の障礙物しょうがいぶつが前途によこたわっていても、女はそれをもののくずともしない。それでどうかすると男のあえてせぬ事を敢てして、おもいの外に成功することもある。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
懿文いぶん太子のこうずるや、身をぬきんでゝ、皇孫は世嫡せいちゃくなり、大統をけたまわんこと、礼なり、と云いて、内外の疑懼ぎくを定め、太孫を立てゝ儲君ちょくんとなせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
弟を失った杉之助は、武家としての生活に疑懼ぎくを生じ、そのまま禄を捨てて浪人し、宗方善五郎の隠れ住む江戸に来て、同じ町内の手習師匠などをして、なんとなしに五六年を過しました。
大病にでもなったらどうしようという疑懼ぎくが潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識のしきいの上に頭をもたげて来るのである。
高瀬舟 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
桜屋の店の中は、不安と疑懼ぎくと、慟哭どうこく懊悩おうのうとが渦を巻いておりました。
延期は自分がめて堀に言つてつた。し手遅れと云ふ問題が起ると、堀はまぬかれて自分は免れぬのである。跡部が丁度このあらたに生じた疑懼ぎくに悩まされてゐる所へ、堀の使つかひが手紙を持つて来た。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲みがこひである。堀が今少しくくはしく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼ぎく愁訴しうそである。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
恐怖と疑懼ぎくとにさいなまれて、腹の底からふるえている様子です。
銭形平次捕物控:130 仏敵 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
意志の確かでない跡部は、荻野等三人のことばをたやすくれて、逮捕の事を見合みあはせたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、疑懼ぎくが生じて来た。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
文芸の世界は疑懼ぎくの世界となった。
沈黙の塔 (新字新仮名) / 森鴎外(著)