後胤こういん)” の例文
十二年前「猫一疋から大富となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ国(今のコーテン)王は毘沙門天の後胤こういんという。
この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の後胤こういんばかりが、残っているという事になった。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
いにしえの優雅なる華武者はなむしゃと華武者とが、遠祖は清和の流れをみ、何のなにがしの後胤こういんにて何処どこそこの住人、誰の子の次男三男なり——などと
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
遠く天児屋根あめのこやねみことにあり、命の二十二代は大織冠たいしょくかん藤原の鎌足かまたり公、それより十六代の後胤こういんである伊達遠江守蔵人とおとうみのかみくろうどは従五位下常陸介朝宗ひたちのすけともむねどのに出づるこの——
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
これは……九代の後胤こういん平の、……と平家の豪傑が名乗れる如く、のの字二ツ附けたるは、売物に花の他ならず。
草あやめ (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
この墓の後から西洋風の幽霊が出て来るので、この幽霊になつた俳優が川上音二郎五代の後胤こういんといふのである。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
その他の場合には羽衣天女の後胤こういんは、必ず女系を主とする巫女みこの家であった。天人に男女の児が生まれたという形も、元はこの動機から強調せられたように思われる。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そも我こそは桓武くわんむ天皇の後胤こういんに鎮守府将軍良将よしまさが子、相馬の小次郎将門まさかどなれ、承平天慶のむかしのうらみ、利根の川水日夜に流れて滔〻たう/\汨〻ゐつ/\千古れども未だ一念のあとを洗はねば
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
「聞くまでもないこと、清和天皇、十代の後胤こういん、鎌倉殿の御舎弟ごしゃてい、九郎大夫判官殿じゃ」
村上むらかみ御門みかど第七の王子、二品中務親王にほんなかつかさしんのう、六代の後胤こういん仁和寺にんなじ法印寛雅ほういんかんがが子、京極きょうごく源大納言雅俊卿みなもとのだいなごんまさとしきょうの孫に生れたのは、こう云う俊寛しゅんかん一人じゃが、あめしたには千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
とっさん、わしはいったい甲州者なんだがね、その甲源一刀流の秩父の逸見先生というのは、甲州の逸見冠者十七代の後胤こういんというところから甲斐源氏を取って、それで甲源を名乗ったものなんだ
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
という仔細は、臣が祖先は中山靖王ちゅうざんせいおう後胤こういん、景帝の玄孫げんそんにあたり、劉雄りゅうゆうが孫、劉弘りゅうこうの子こそ、不肖玄徳でありまする。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「馬鹿に付ける薬はねえ、木曽と云えば義仲の後胤こういん、どうして大した家柄だ。大名中での大大名よ。その立派な木曽家から、俺の所へ何んの用がある」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
『近江輿地誌略』に、ある説になべは、蒲生忠知の室は内藤帯刀ないとうたてわきむすめなり、故に蒲生家断絶後内藤家に伝う、太刀は佐野の余流赤堀家に伝う(蒲生佐野ともに秀郷の後胤こういんだ)
花の中なる枯木こぼくと観じて、独り寂寞じゃくまくとして茶を煮るおうな、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤こういんか、北畠きたばたけ殿の落武者か、お杉お玉の親類のはずを、思いもかけぬ上客じょうかくにん引手夥多ひくてあまた彼処かしこを抜けて
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いずれも皆六孫王経基つねもとの子孫で、多田新発意満仲ただのしんぼちみつなか後胤こういんなのです
大雷の後胤こういんは、出雲氏となって出雲に伝わり、出雲朝廷から天孫に仕え、さらに子孫相継いで大和朝廷に歴仕した。そうして中国朝鮮から渡った造顔術と混合した。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ボルネオには虎と鱷を尊び、各その後胤こういんと称し、これを盾に画く者あり(ラツェル『人類史ヒストリー・オヴ・マンカインド』)。
われは沛国譙郡はいこくしょうぐん(安徽省・毫県)の生れで、曹操そうそうあざな孟徳もうとく小字こあざな阿瞞あまん、また吉利きつりともいう者です。すなわち漢の相国しょうこく曹参そうさんより二十四代の後胤こういんにして、大鴻臚たいこうろ曹崇そうすうが嫡男なり。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けれど自分は何をつつもう、漢の中山靖王ちゅうざんせいおう劉勝りゅうしょう後胤こういんで、景帝の玄孫にあたるものです。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
放歌僧の連中が、中古時代に住んでいたからで、里人は放歌僧の後胤こういんなのである。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
宋帝の後胤こういん趙生てふ貧民が、木を伐りに行って大きな白蛇己をまんとするを見、逃げ帰って妻に語ると、妻白鼠や白蛇は宝物の変化へんげだといって夫とともに往き、蛇に随って巌穴に入り
漢の司隷校尉しれいこうい諸葛豊しょかつほう後胤こういんで、父を諸葛珪しょかつけいといい、泰山の郡丞ぐんじょうを勤めていたそうですが、早世されたので、叔父の諸葛玄しょかつげんにしたがって、兄弟らみなこの地方に移住し、後、一弟と共に
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
上州甘楽郡かんらぐん小幡こはたの城主、織田美濃守信邦のぶくに様と申せば、ろくはわずかに二万石ながら、北畠内府常真きたばたけないふつねさね様のお子、兵部大輔信良ひょうぶだいすけのぶよし様の後胤こういん、織田一統の貴族として、国持ち城持ちのお身柄でもないのに
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「されば、自分の郷家は涿県たくけんで、家系は、中山靖王ちゅうざんせいおう後胤こういんであります。久しく土民の中にひそんでいましたが、この度ようやく、黄巾の乱に小功あって、当県の尉に叙せられた者であります」
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私の家の家柄は、長者の家などに比べましては、筋目が正しいのでございまして、あの善光寺の如来様を難波なにわの池から拾い上げた本田善光よしみつ後胤こういんとか。それで代々家のおさは、如来衛門と名のります。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
曹操は相国しょうこく曹参そうさん後胤こういんで、累世るいせい四百年も漢室に仕えてその禄をみながら、いま漢室の衰えるを見るや、その恩を報ぜんとはせず、かえって、乱世の奸雄たる本質をあらわして簒虐さんぎゃくをたくらむ。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
土屋子爵はその後胤こういんである。家康もなかなか粋の事をする。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「しかし後胤こういんや一味の者が、残っているはずにござります」
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「袁紹は元来、漢の名将の後胤こういんであるのみでなく、父祖四代にわたって、三公の重職に昇り、門下にはまた、四方に良い吏人やくにんが多い。その名望地位から見ても、袁紹こそ盟主として恥かしくない人物ではあるまいか」
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「俺を知らねえか、え、俺を。明神太郎の後胤こういんだぞ!」
大鵬のゆくえ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
葛原かつらばらの親王九代の後胤こういん——
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)