弛緩しかん)” の例文
これは、海風が熱風シロッコといっしょになってひき起こすことのある、興奮と弛緩しかんとをかねた状態なのであった。せつない汗がにじみ出た。
こんな実例から見ると、こうした種類の涙は異常な不快な緊張が持続した後にそれがようやく弛緩しかんし始める際に流れ出すものらしい。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ことに釈迦は、大腿が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも弛緩しかんした感じを伴っているように思われる。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
そう思ったとたん彼は全身の弛緩しかんの底から、妙な闘志が湧き上って来るのを感じて、運転手よりも先に、駒をぱちぱちと並べ始めていた。
記憶 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
私が何分間かの持続の後に一つの行為を成し遂げたとたんに、夫の体がにわかにぐらぐらと弛緩しかんし出して、私の体の上へくずれ落ちて来た。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
私が自身の弛緩しかんを警戒する敏感さ、あなたの知ることの出来ない部分にゴミをつけまいとする心くばりは、随分神経質でした。
われ人共に、何をもってしてもいやし難い無限に続く人生の哀音なるものが僕の弛緩しかんした精神のよろいの合せ目から浸み込むためか。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
空はリキュール酒のようなあまさで、夜の街を覆うと、絢爛けんらんな渦巻きがとおく去って、女の靴のかかとが男の弛緩しかんした神経をこつこつとたたいた。
女百貨店 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
殊に徳川末季の江戸生活には三百年の太平に弛緩しかんした廃頽はいたい気分が著るしく濃厚であって、快楽主義の京伝や三馬の生活が遊戯的であったは勿論
君自身の肉体の疲労やら、精神の弛緩しかん、情熱の喪失を、ひたすら時代のせいにして、君の怠惰を巧みに理窟附けて、人の同情を得ようとしている。
風の便り (新字新仮名) / 太宰治(著)
「うん」と答えただけであったが、その様子は素気そっけないと云うよりも、むしろ湯上りで、精神が弛緩しかんした気味に見えた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
自分の一生をしてかゝった仕事が、空虚な幻影であることが、分った時ほど、人間の心が弛緩しかんし堕落することはない。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ともすれば彼女は、注意力の弛緩しかんからして、他のことを考えてぼんやりしていた。彼女は時々、胸の隠衣かくしから時計を出して針の動くのを眺めていた。
ウォーソン夫人の黒猫 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
意志の弛緩しかんとして男みずから恥ずべきことであるのみならず、その妻の愛と貞操を凌辱りょうじょくするものであり、子孫の徳性と健康とを破壊するものである。
私娼の撲滅について (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
しかし、物を洗い清める外気の中では、大地に接触しては、その纏綿は弛緩しかんし、それらの観念は妖鬼ようき的性質を失った。
秋之坊の句はさのみすぐれたものではなく、元禄の句としては多少の弛緩しかんを免れぬが、再誦三誦すると、やはりこの句の方がわれわれには親しみがある。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
譜代大名ふだいだいみょうの心を弛緩しかんさせないために。——また、外様とざま大名の蓄力を経済的にそれへ消耗させてしまうために。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
云い終ると、伸子の全身を硬張こわばらせていた靱帯じんたいが急に弛緩しかんしたように見え、その顔にグッタリとした疲労の色が現われた。そこへ、法水は和やかな声で訊ねた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それをする代わりに「私」という人間の道徳的自責などをしまいに書いたのでは、せっかく興奮し緊張していた読者の心は、すっかり、冷却し、弛緩しかんしてしまう。
「陰獣」その他 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
どうもこの倦怠という言葉は甚だ坐りが悪いけれど、他によい言葉がないから、致し方なく使用するのだが、いわば、精神活動の一種の弛緩しかん状態を意味するのだ。
闘争 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
女は境遇に教えられて、快楽が適度に制限されなければならないことを知っていた、それが倦怠けんたい弛緩しかんから二人を守った。……もちろん生活は詰るばかりだった。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
性道徳は弛緩しかんしきっている。マタ・アリは、スパイそのものよりも、いろんな男を征服するのが面白いのだ。今度はそれが仕事で、資金はふんだんに支給される。
戦雲を駆る女怪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
極度の緊張から驚駭きょうがいへ、驚駭から失望へ、失望から弛緩しかんへ、私は恐ろしい夢と、金を取戻したはかない喜びの夢を、夢現ゆめうつつの境に夢みながら、琵琶湖のほとりをひた走りしていた。
急行十三時間 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
然れども、その発作の最高潮時、もしくは発作の主要部分を経過したるのちは、精神の弛緩しかんと共に異常なる疲労を感じ、且つ、甚しきかつを覚ゆるは生理上当然の帰結なり。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
それなのに、近年——贈るほうもおくるほうだが、うけとるほうも受け取るほうだ、と美濃守は、弛緩しかんしかけた幕政のあらわれの一つのように思えて、憂憤ゆうふんを禁じえなかった。
元禄十三年 (新字新仮名) / 林不忘(著)
弛緩しかんした精神は張りつめた生活を保つことができない。そういう生活態度のうちには、善と悪とが混在している。柔弱は有害であるとしても寛大は健やかで有益だからである。
そこで、この絵像の与うるところの印象は、全体に於てノッペラボーで、部分に於て呪いで、嫉みで、嘲笑で、弛緩しかんで、倦怠で、やがて醜悪なる悪徳のほかに何物も無いらしい
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
赤人のものは、総じて健康体の如くに、清潔なところがあって、だらりとした弛緩しかんがない。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
それが衰弱と睡眠のためにけだるく弛緩しかんした神経を溌剌はつらつと生気づける。四角のなかにはしいの木と塀外の街路樹、その枝葉のあいだからちらほらと空がみえて、時にはすずめの声がきこえる。
胆石 (新字新仮名) / 中勘助(著)
だと申してまた、弛緩しかんした心でいて、俳句は古くてもいいのだ、どうでも十七字さえ並べておれば進歩しなくてもいいのだというような暢気のんき過ぎた心持でいても困ったものであります。
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心長閑のどかに大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩しかんして其変の起るのを待っている。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
したがって街の疎開にも緩急があり、人心も緊張と弛緩しかんが絶えず交替していた。警報は殆ど連夜出たが、それは機雷投下ときまっていたので、森製作所でも監視当番制を廃止してしまった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
浴槽の中での幸福な気持が、いつにない弛緩しかんした心を誘い出したのかも知れない。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
さて、バナナはくなったが、虎は仲々出て来ぬ。期待の外れた失望と、緊張の弛緩しかんとから、私はやや睡気ねむけを催しはじめた。寒い風にふるえながら、それでも私はコクリコクリやりかけた。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
病気の元を思い出させるような、短い間の呼吸困難が折々あるが、それが過ぎ去ると、一種の弛緩しかん状態になる。そしてもう自分で、なぜそんな状態になるかを考えて見るほどの力もない。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
女房の顔を見ると筋肉が弛緩しかんする男だ。僕も女性の前では体裁を重んじる。
勝ち運負け運 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
人前では、さも利口そうに緊張している表情が、一人切りになると、まるで弛緩しかんしてしまって、恐しいほど相好そうごうの変るものです。ある人は、生きた人間と死人ほどの、甚だしい相違を現します。
湖畔亭事件 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
口は、異性間の通路としての現実性を具備していることと、運動について大なる可能性をもっていることとに基づいて、「いき」の表現たる弛緩しかん緊張きんちょうとを極めて明瞭な形で示し得るものである。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
弛緩しかんした演奏だ。
用がすんだら弛緩しかんしてもいいはずの緊張が強直の状態になってそれが夜までも持続して安眠を妨げるようなことがおりおりある。
映画と生理 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
この倦怠は何人にも知られてはならぬものだったし、どうあっても、不随意と弛緩しかんのどんな兆候によってでも、作品の上に現われてはならぬものだった。
十分眠った筈なのに、目が醒めても筋肉が弛緩しかんしているのを感じ、背中がベッドに貼りついたように起き上り難い。昼近くまでぐずついていることがあった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
高氏の言で、今、問注所のそうした空気も、ふと妙に、ぐらかされたのを見ると、主席の執事貞顕は、すぐその弛緩しかんをひき緊めるべき職責に駆られていた。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
訥々とつとつたる口調で、戸石君の精神の弛緩しかんを指摘し、も少し真剣にやろうじゃないか、と攻めるのだそうで、剣道三段の戸石君も大いに閉口して、私にその事を訴えた。
散華 (新字新仮名) / 太宰治(著)
こけた頬や骨ばったあごのあたりに、激しい疲労と弛緩しかんの色があらわれていた。疲れきって虚脱しているようであった。なにもかも、身も心も投げだしたというふうにみえた。
暴風雨の中 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その振張しんちょう弛緩しかんとが直ちに国民の一組成分である個人の生活の休戚に影響することであり
選挙に対する婦人の希望 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
この意味に於いて政治的意識の弛緩しかんは、マルクス主義文學作家にとつては致命的である。
「健康といいますとね、緊張と弛緩しかん亢奮こうふんと抑制などのバランスがとれている状態です」
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
その満潮がようやく引き始める時期をここに正確に指定することはできないが、弛緩しかんの傾向はすでに天平の前半から始まり、後半に至っていよいよ著しくなったと見てよかろう。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
たいていそういう発作は、突然の精神弛緩しかんに終ることが多かった。彼は涙を流し、地上に身を投出し、大地に抱きついた。それにかじりつき、しがみつき、それを食いたかった。