千々ちぢ)” の例文
彼は古ぼけたぺしゃんこになった枕に顔を埋めて、じっと考えた。長い間考えた。心臓は激しく鼓動し、思いは千々ちぢに乱れ騒いだ。
胸を打って、襟をつかんで、咽喉のどをせめて、思いを一処ひとところに凝らそうとすれば、なおぞ、千々ちぢに乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
なんとかして瓦町へこの襲撃を先触れしなくては! と千々ちぢに思いめぐらしていると、何にも知らない鍛冶富はいい気なもので
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何いかになしおるやらんと、心は千々ちぢに砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
しかし銀子は千々ちぢに思い惑い、ある時ぽつぽつした彼女一流の丸っこい字で、母へ手紙を書き、この結婚ばなしの成行きを占ってもらうことにした。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
他は皆、なんでも一切、千々ちぢにちぎれ飛ぶ雲の思いで、生きて居るのか死んで居るのか、それさえ分明しないのだ。よくも、よくも! 感想だなぞと。
彼はすでに予審判事の握っている証拠物件に気附いていたからだ。そののっぴきならぬ証拠を、如何に言い解くべきかと、心を千々ちぢに砕いていたからだ。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
今日青年たちの思いは千々ちぢであるのに、芸術への表現がおくれているのもそのせいであるし、婦人の文学的発言がためらいがちなのも、そのせいである。
婦人の生活と文学 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
どういおう! なんと名乗ろう! 千々ちぢに乱れて涙ばかりを見あわすであろう! そんな想像だけでも涙がわく。
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ついでに頭の機能はたらきめて欲しいが、こればかりは如何どうする事も出来ず、千々ちぢに思乱れ種々さまざま思佗おもいわびて頭にいささかの隙も無いけれど、よしこれとてもちッとのの辛抱。
『一たいこれは何誰どなたかしら……』こころ千々ちぢみだれながらも、わたくし多少たしょう好奇心こうきしんもよおさずにられませんでした。
思い切って娘の選んだ道へこのまま赴かせようかと考えてみたり……さりげなく娘を抱いてはいましても、肚の中では膏汗あぶらあせを流さんばかりの気持で、千々ちぢに心が乱れておりました
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
うちの賢夫人(……というのは母のことだが)と長女の千々ちぢ子さまは、葬式の手続きのため、匆々、東京へ転入したが、当主たる石田九万くま吉氏は、現職のまま海軍民政部の嘱託にひっぱられ
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
側にありけるお登和嬢は一生懸命の場合なり。女ながらも千々ちぢに心を砕き
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
僕の心は千々ちぢに乱れた。愛する人たちの住んでいる海底都市を、トロ族の暴行より如何にして護ったらいいだろうか。また大激昂だいげきこうのトロ族を何とか一度でしずまらせる方法はないものであろうかと。
海底都市 (新字新仮名) / 海野十三(著)
幻燈の花輪車かりんしゃのよう辮髪の先の灯は、百千ももちに、千々ちぢに、躍って、おどって、果てしなかった。まさにまさしくこれだけは逸品だった。二十人あまりのお客たちが言いあわせたように拍手をおくった。
随筆 寄席囃子 (新字新仮名) / 正岡容(著)
思ひ草しげき夏野に置く露の千々ちぢにこころをくだくころかな
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
月見れば千々ちぢに物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
みづからの姿を千々ちぢにうちくだく宮殿のごとく
浮けよ、沈めよ、千々ちぢの なやみ
黒き素船 (新字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
ゆうべの心千々ちぢに何ぞはるかなる。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
わが胸の千々ちぢの切なさ
愛欲あいよく千々ちぢのうれひを。
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
ことは簡なれども、事情の大方はすいせられつ。さて何とか救済の道もがなと千々ちぢに心をくだきけれども、その術なし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
しかし、お綱の考えはどうであったろうか? すくなくも今のお綱の胸のうちは千々ちぢにみだれているに違いない。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
などとそれこそ思いが愚かしく千々ちぢに乱れ、上の女の子に桃の皮をむいてやったりしているうちに、そろそろ下の男の子が眼をさまし、むずかり出しました。
たずねびと (新字新仮名) / 太宰治(著)
ところが鍵を盗み出す前でしたか、それとも蔵の二階へあがりながらでありましたか、千々ちぢに乱れる心のうちで、わたしはふと滑稽なことを考えたものでございます。
人でなしの恋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
じいさんはまゆひとうごかされず、ましってきにたれますので、わたくしだまってそのあとについて出掛でかけましたが、しかしわたくしむねうち千々ちぢくだけて、あしはこびが自然しぜんおくちでございました。
君あしたに去りぬ夕べの心千々ちぢ
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
月見れば千々ちぢに物こそ悲しけれ
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
或いは途中で明智の手にとらわれたか、ここのかくれ家を探し当てないものか。朝夕を千々ちぢに思うのだった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
何とか報恩の道もがなと、千々ちぢに心をくだきしのち、同女の次女を養い取りていささか学芸をさずけやりぬ。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
五円を懐中して下駄を買いに出掛けても、下駄屋の前をいたずらに右往左往して思いが千々ちぢに乱れ、ついに意を決して下駄屋の隣りのビヤホオルに飛び込み、五円を全部費消してしまうのである。
服装に就いて (新字新仮名) / 太宰治(著)
のあたりに拝して、このじじは、思いも千々ちぢに、むかし懐かしゅう存じあげておりますものを
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
思いは千々ちぢに乱れるばかりだ。どうも日記の文章が、いつもと違っているようだ。たしかに気持も、いや気持がちがうというのは、気違いの事だ。まさか、気違いではなかろうが、今夜は変だ。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
あるいは、帝に直諫ちょっかん申しあげたあとも、その絶望から将来の必然を千々ちぢに悩んで、もはや一個の力ではいかんともなしがたい苦悶の自己を、ここでしずかに処理しているのかともおもわれる。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)